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上社本宮の勅願殿 27.6.20 改稿

 勅願殿の案内板に「建立は元禄三年といわれ、建物の配置は諏訪大神の御神霊が宿る守屋山(御神体山)に向かい建てられ…」とあるのを読んで、違和感を覚えました。現在の勅願殿は、幕末に建て替えたときに向きを90°変えているからです。
 「これは現在の話です」としても、諏訪大社が「守屋山=御神体山」と言い切っているのが心配です。そのため、ネットで収集していた絵図を元にした〔古絵図に見る勅願殿〕を、追記として加えることにしました。

 

勅願殿の修復 20.1.20

 1月14日付け『長野日報』に、「勅願殿を修復」と大きな見出しがありました。何だろう、と小見出しを読むと「一般祈祷所に」とあります。「内部や屋根、階段などの一部を直した」とある添付の写真を見ると、真っ先に目に付いたのが増設された木の階段でした。その上に目を転じると、見覚えのない唐破風屋根の建造物が加えられています。

諏訪大社勅願殿 今日も真冬日という1月28日。本宮へ寄ってみると、モノクロ写真ではわからなかった、銅板屋根も眩しい“玄関”ができていました。前景がゴチャゴチャしていますが、その中が見えるように宝物殿側に寄ったのでこのアングルになりました。
 こうなると、修復前の写真が貴重になってきます。

勅願殿 15.7.12

 HD内を探すと、平成15年に撮った写真が見つかりました。日付を確認すると、7月半ばです。「こもった湿気を逃すためだろうか」と、珍しく蔀戸(しとみど)が開いていたのが気になって撮ったことを思い出しました。

勅願とは

 デジタル『大辞泉』では、以下のように解説しています。

【勅願】勅命による祈願。天皇の祈願。

【勅願所】勅命により、国家鎮護などを祈願した神社や寺院。

 「所」を「殿」に置き替えれば、勅命によって祈願した社殿となります。ところが、不思議なことに、どこにでもありそうな「勅願殿」をネットで検索しても、諏訪大社しかヒットしません。かつての諏訪神社上社固有の名称なのでしょうか。
 古絵図でその場所を探ると、『上社古図』では「祈祷所」、『諏訪藩主手元絵図』では「祈祷処」と書いてあります。文政2年(1819)に書かれた『信濃國昔姿』では「行事殿」で、「此所は平日天下泰平五穀成就の祈願所也、故に社中一統の御祈祷有之節は此所也」と(よくわからない)説明があります。時代により様々な名で呼ばれたことがわかりますが、どうも“朝廷”とは関係がないようです。

 

古絵図に見る勅願殿 27.6.19

 勅願殿は元禄三年(1690年)の建造とありますから、何らかの文化財指定を受けていると思っていました。ところが、「(少なくとも)県宝」との予想は外れ、まったくの無指定でした。念のために諏訪大社社務所刊『諏訪大社復興記』で確認すると、確かに「元禄三年」です。ただ古いだけでは文化財に指定されないことは理解していましたが、結構重厚な社殿なので意外でした。もしかしたら、後世に大掛かりな改築があったのかもしれません。

勅願殿 宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の図録に、幕府へ提出した、寛政4年(1792)の奥書がある『上宮 諏方大明神本社繪圖(控)』があります。
 現在の境内図と比較しても遜色ありませんから、極めて正確であることがわかります。ここに、三間五間の「祈祷殿」が描かれていますが、現在の社殿配置と異なって妻側が正面になっています。この絵図は後の参考になるので、左へ「文庫・御炊(みかしき)殿」・右下に「参籠所」がある社殿配置を頭に入れておいてください。

勅願殿 絵図では一間とある「文庫」の写真を参考として載せました。『諏訪大社復興記』では、建築年代は安永7年(1778)とありました。


絵図に見る勅願殿

上社古図「祈祷所」
茅野市神長官守矢史料館蔵『復元模写上社古図』

 諏訪では最も古い『上社古図』です。江戸時代初期の作とされていますが、祈祷所が、前出の『諏方大明神本社繪圖』と同じ方向で描いてあります。また、文庫の場所には「御供所」があり、御炊殿が左に続いています。

諏訪藩主手元絵図「祈祷処」
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

 次いで、享保18年(1733)頃に作成された『諏訪藩主手元絵図』から一部を転載しました。ここでは「祈祷処」の平入(ひらいり)が正面になっています。
 ただし、この絵図には規則性があり、(図の)水平線に添うものが(斜めから見た)横向きに描かれ、右側の「籠所・高神子屋」のように垂線にあるものは“縦置”で表現しています。

 以降の四枚は、『信州デジくら』にある本と絵図からその一部を転載したものです。妻入を正面とするものがより古いと考え、作成時期が不明なものもそれに沿って並べました。

勅願殿1
長野県立歴史館蔵

 江戸時代としかわからない『信州一之宮諏方大明神御社内之圖』です。左から「ミカシキ・ブンコ・ギョウジデン・コモリジョ(籠所)」と読めます。
 版画が印刷の手法なので絵の上手・下手は判断できませんが、社殿の具体的な造りがよくわかります。

勅願殿2
長野県立歴史館蔵

 文化2年(1805)『木曽路名所図絵』にある「上諏方神社」です。
 ここでは「祈祷所」ですが、廻廊が繋がっているので、幣拝殿の方向に向かって祈祷する社殿であることが想像できます。また、御炊殿と文庫は軒を接しています。

勅願殿
長野県立歴史館蔵

 時代不詳の『信濃國一宮諏方上社繪圖』の一部です。
 中央にある、入口(窓)が描かれた社殿が祈祷殿となります。かなり小さく表現していますが、現在と同じ向きです。祈祷殿は行事殿とも呼ばれていますから、右の「行ジデン」は参籠所の間違いでしょうか。

勅願殿3
長野県立歴史館蔵

 「明治17年御届」とある『国幣中社信濃国諏方上社図』です。「勅願殿」と書かれ、現在の造作と酷似しています。
 ただし、大きく誇張された御炊殿と文庫が連結しており、“誇大表示”との印象を持ちます。明治の世とあって、左の枠外には「神宮遙拝所」が描かれています。もちろん、まだ拝所は存在していません。

 これまでに挙げた絵図から「境内の右端に勅願殿があった」ことがわかります。本稿には直接関係ありませんが、明治中期以降に境内の拡幅が行われたことになります。

勅願殿の古態

 写真と違い、絵図には誇張や省略(簡略)が見られます。特に後半の四枚は観光案内図ともいえますから、どこまで信用していいのかわかりません。しかし、山側に向かって見た正面が“妻・平”のどちらであるかを選ぶとすれば、初めに載せた『上宮 諏方大明神本社繪圖』の正確さから、『木曽路名所図絵』が書かれた文化2年以降に、現在の平入が正面となる祈祷殿が新しく造営されたと考えるしかありません。

 しかし、ここでその可能性を述べても、仮に棟札が存在しそれに元禄3年とあれば(何かの間違いと思っても)引っ込めるしかありません。それでも「原初は妻入(つまいり)が正面(幣拝殿に向かって祈祷)」にこだわる私は、現在の祈祷殿が目測で(6間とするには短いので)5間あることに注目しました。国幣中社の認定化を目指して境内を整備(拡幅)した際に、境内の長軸方向に合わせて、(元禄3年に建造した)社殿を90°回転させた可能性が出てきたからです。そのため、修復を含めたこの時の大改造が“祟って”、文化財としての評価が下がったとすることもできます。

勅願殿は、弘化4年に造られた

 「長くてすみません」と私が謝る筋合いはありませんが、東京芸術大学大学院美術研究科文化財保存学専攻保存修復建造物研究室 著『信濃国一之宮 諏訪大社上社本宮 建造物調査報告書』が、平成24年に刊行されました。その〔建造物の開設〕から「勅願殿」を抜粋しました。

…正面の高欄擬宝珠に「奉寄進/矢崎春斎/源光安」、「弘化四年丁未/三月丁酉」の陰刻銘が確認されたので、弘化四年(一八四七)に再建されたとみられる。…

 明治まで後20年という時代に再建されたことになります。なぜ90度“曲げた”のかは憶測もできませんが、これで文化財に指定されなかった理由がわかりました。