諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社雑学メニュー /

勅使殿と五間廊の移転 24.12.23 改

注連掛鳥居の道

 本宮の布橋に並行した玉垣の一ヶ所に注連掛鳥居があります。
布橋へ続く通路 一般の参拝客がこの鳥居をくぐるのは希だと思いますが、このサイトを運営している“立場”上、私は何度も利用しています。
 ある日、この注連掛鳥居の正面に立つと、今まで目に入らなかった「石段を経て布橋に続く」一つの道が見通せました。「節穴」という言葉はさておいて、新たな疑問を解決するために、その行き着く先を見究めることにしました。
 上写真では上・中の石段を左右に入れた写真を以下に用意しました。早い話が横から撮った写真です。

古道

 左の石段を上がり、かつてはここに“何か”があったとも想像してしまう、やや傾斜のある壇上から再び石段を上がると、布橋の中に立ちます。しかし、その先は腰板が連なっていますから、左右のどちらかに歩くしかありません。
 実は、すぐ隣に神楽殿から四足門へ続く古くからの石段があります。両通路はかなり近接していますから、下壇から布橋に向かうとすれば選択肢が二つあることになります。「各人の感性の赴くままの道をたどれ」ということでしょうが、かつてはそれなりに使い分けていたはずです。しかし、本宮境内に関係する古い絵図には載っていないので、比較的新しい通路かもしれません。

寛政4年の古図

 『諏訪史 第二巻後編』に、「上宮諏方大明神繪圖」とある古図を見つけました。これについての解説はありませんが、諏方大祝・神長官・如法院の連名と判が押してあります。幕府に提出した書類の一つ(控)でしょう。その一部を忠実に描き直したのが以下の図です。

寛政四年古図 寛政四年壬子ですから1792年です。各社殿には大きさ・玉垣には長さ・鳥居には基点からの距離が書いてあります。一目で、現在の地図と遜色がないことがわかりました。
 これに上写真の道を「」として貼り付けてみると、何と、「五間廊」を突き抜けています。江戸初期と伝わる『上社古図』は絵図なので正確とは言えませんが、「帝屋(勅使殿)・五間廊」が『寛政の古図』と同じ位置に描かれています。そのため、少なくとも寛政4年までは天流水舎(天流屋)と近距離で向き合っていたことになります。

 現在の様子を、右斜めから撮ったのが下の写真です。左へかなり離れた位置に勅使殿と五間廊があります。また、石段の場所も変わっています。寛政4年以降に両社殿が移動したということになりますが、「いつ・何のため」がわかりません。

勅使殿

 勅使殿と五間廊の再建・修理の年代を、本や資料から拾ってみました。

 史料
社殿 
『諏訪大社復興記』
諏訪大社社務所
『諏訪市の文化財』
諏訪市教育委員会
勅使殿元和年中再建
昭和34年改修
元禄3年(1690)再建(※伝)
安政年間大修理
五間廊安永2年(1773)再建
昭和34年改修
昭和19年再建

 この他に、信濃毎日新聞社『諏訪大社』が「勅使殿 安政6年(1859)の大修理」を載せています。『諏訪市の文化財』が「安政年間」なので、「安政6年の大修理」を標準としました。

勅使殿と五間廊は移転した

 再び「寛政の古図」に戻ります。制作年が「1792年」なので、これ以降に勅使殿・五間廊の移動があったとしました。現在の状況からは、「布橋への通路を造るために空けた」のか「移動して空いた場所に道を造った」のか、どちらにも取れます。いずれにしても、勅使殿・五間廊が現在見る場所に移動したのは、記録にある安政6年と考えるのが合理的です。現在の五間廊は「昭和19年新築(再建)」とあるので、(文字通りに受けて)この時には建てられず廃絶したとしました。しかし、「何のため」が説明できません。

勅使殿
「勅使殿と五間廊」 15.10.5

 次は、冒頭に戻って「注連掛鳥居」です。この鳥居が建てられてから3年後に、移築が考えられる勅使殿の「安政6年の大修理」がありました。この大修理(改修)が、通常の形ではない鳥居・石畳・石段を含む布橋への道と勅使殿の移築がセットになっているのは間違いありません。安政7年中に元号が替わった「万延元年庚申(かのえさる)」は式年造営の年ですから、御柱祭に間に合うように工事が行われたと推測しました。

庚申

 「これでまとめ」とするつもりが、軽い念押しで「庚申」をネット検索したばかりに、キーボードを休めるタイミングを逃してしまいました。

【庚申】 庚申は干・支ともに金性であることから、庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。庚申に続く辛酉も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされた。そのため、庚申・辛酉は政治的変革が起こるとされ、それを防ぐために2年続けて改元が行われることも多かった。例えば万延元年(1860年)と文久元年(1861年)などである。
『Wikipedia』

 改めて年代表で確認すると、確かに万延元年の次の年が文久元年です。私は“暦世界”のことなど全く気にしませんが、この時代では「特別な庚申の御柱年」とあって、大きな造営や整備、盛大な神事が行われたとしてもおかしくはありません。その「結果」が、現在我々が見ている境内ということでしょう。しかし、「社殿を移動するきっかけ」を示すことはできましたが、「なぜ」の方は相変わらず「謎」のままです。

 これ以上進展がないので、こじつけがミックスしたような「勅使殿と五間廊」ですが、6年越しの完結としました。因みに、この年からの庚申は、1920・1980年とまだ2回しかありません。また、私事ですが、次回の2040年(庚申)の御柱は、空の上から見ていることになります。

勅使殿と五間廊は、享和年代に移転した!?

木曽路名所図会 文化2年(1805)上梓とある『木曽路名所圖會(図会)』に、諏訪大社本宮の挿絵が載っていました。左はその一部ですが、相互位置にやや難がある社殿があるものの、かなり正確に描かれています。
 この絵図を参照すると、企画から出版までの年月を考えれば、享和年代(1800年頃)には勅使殿と五間廊は移転していたことがわかります。『上宮諏方大明神繪圖』を基準にして、1792年〜1805年の間に移転したとしました。

注連掛鳥居の道は「納経の道」

 本ページとは別に作った「納経の道『潜り戸口』」があります。まったく別の視点で書いたものですが、勅使殿・五間廊の“なぜ移転!?”が繋がってしまいました。よろしければ、以下のリンクページを御覧ください。


‖サイト内リンク‖ 納経の道「潜り戸口」