前宮本殿前で、社務所の職員と話をする機会がありました。質問の内容に関連したのか、ここに「八坂刀売命(やさかとめのみこと)の墓がある」と教えてくれました。
本殿を囲む玉垣の板塀は、方形ではなく三之御柱脇で張り出しています。言われたその場所をのぞくと、確かに瑞垣らしき石柱が見え隠れしています。正面に戻って板の隙間から見ると、奥には、確かに社殿とは異質の石垣がありました。
右端の石柱には「昭和7年10月」と彫り込みがあります。そのことから、瑞垣が本殿と同じ時期に造られたことがわかります。過去何回も訪れていて、八坂刀売命と言われる陵の存在に気が付かなかったのは、板塀に接する南側が藪に覆われていたからでした。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第四巻』に、諏訪頼国氏蔵とある『上宮御鎮座秘伝記』があります。拾い読みをしていたら、〔下社 上諏方宮之別宮也〕の中に、「天文22年12月」とある以下の条文を見つけました。以下は我流の書き下し文ですが、大きな間違いはないと思います。
一、本宮の辰巳(南東)を十八丁隔て前宮と号す、是(これ)本宮の御妻八坂刀売命(之、降孫供奉に臨み天中三十二神の八坂彦命の後流なり)の和魂(にぎたま)陰霊は岩根樹下に於いて鎮座而(して)有り、神稜これ在り焉(えん※)、荒魂陽霊は側の社中に於いて鎮座、(後略)
五官と、「信濃国一宮上諏方南方刀美神和魂荒魂霊宮神主」と添え書きがある諏方大祝の署名があります。「大祝=神主」となる文言には違和感がありますが、大祝家は「前宮に建御名方命の妻八坂刀売命の墓があり、隣接の社殿で八坂刀売命を祀っている」と認識していることになります。
よくわからない「和魂陰霊・荒魂陽霊」は読まなかったことにして、明治天皇の「伏見桃山陵(京都)・明治神宮(東京)」を例にとれば、前宮の玉垣内にある「神陵と本殿」の関係がよく理解できます。
寛政四年(1792)の『上宮諏方大明神前宮繪図』があります。宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』から、参照としてその一部を載せました。
建御名方命陵の説もあるので、ここが八坂刀売命の神陵かは別として、左の「御神所」が、現在(上写真)の瑞垣に囲まれている場所になります。
右には社殿がありますから、この時代も「神陵と本殿」の二本立てということがわかります。このように、地元では明治の初めまでは「おはか・御神陵」と呼んでいたそうですから、天文から現在の平成までこの“構成”が続いていることになります。
今井野菊著『信濃一之宮 諏訪大明神前宮遺蹟』に〔前宮遺蹟変貌記録(一)〕があります。その中から、「御神陵」を抜粋しました。
ここには、神陵の場所が「東・西・正面」などと具体的に書いてありますが、何回も訪れている私でもピンと来ません。
「東部─建御名方命・その西部─八坂刀売命」と読めば、八坂刀売命のお墓とした左写真の瑞垣が「建御名方命陵」となります。
もっとも、今我々が目にする前宮の神域は昭和7年以降に定着した景観ですから、それを基準にして各神陵を当てはめるのは無理というものでしょう。それに、この書は「口碑をすなおに云い伝えねばならない」と断って(書いて)います。
これについて、宮地直一著『諏訪史 第二巻前編』の補注から、「前宮及本宮並其附近史蹟踏査報告」とある部分を抜粋しました。
「前宮古墳」と名が付いた古墳が、茅野市『茅野市史 上巻』の〔守屋山麓古墳群〕にあります。
短い記述ですが、これを公の見解として挙げ、この項を終わらせることにしました。