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(伝)八坂刀売命陵 14.6.25

 前宮本殿前で、社務所の職員と話をする機会がありました。質問の内容に関連したのか、ここに「八坂刀売命(やさかとめのみこと)の墓がある」と教えてくれました。
 本殿を囲む玉垣の板塀は、方形ではなく三之御柱脇で張り出しています。言われたその場所をのぞくと、確かに瑞垣らしき石柱が見え隠れしています。正面に戻って板の隙間から見ると、奥には、確かに社殿とは異質の石垣がありました。

八坂刀売命陵
奥の瑞籬が「伝 八坂刀売命陵」(14.6.22)

 右端の石柱には「昭和7年10月」と彫り込みがあります。そのことから、瑞垣が本殿と同じ時期に造られたことがわかります。過去何回も訪れていて、八坂刀売命と言われる陵の存在に気が付かなかったのは、板塀に接する南側が藪に覆われていたからでした。

神陵と(それを祭る)神社 22.7.8

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』に、諏訪頼国氏蔵とある『上宮御鎮座秘伝記』があります。拾い読みをしていたら、〔祭礼〕の中に、「天文22年12月」とある以下の条文を見つけました。我流の書き下し文ですが、大きな間違いはないと思います。

一、本宮の辰巳(南東)を十八丁隔て前宮と号す、是(これ)本宮の御妻八坂刀売命(之、降孫供奉に臨み天中三十二神の八坂彦命の後流なり)和魂(にぎたま)陰霊は岩根樹下に於いて鎮座(して)有り、神稜これ在り焉(えん※断定などを表す語で、読まない)荒魂陽霊は側の社中に於いて鎮座(後略)

 五官と「信濃国一宮上諏方南方刀美神和魂荒魂霊宮神主」と添え書きがある諏方大祝の署名があります。そのため、この時代の諏訪神社上社は、「前宮に建御名方命の妻八坂刀売命のがあり、隣接の社殿で八坂刀売命祀っている」と認識していることがわかります。
 よくわからない「和魂陰霊・荒魂陽霊」は読まなかったことにして、明治天皇の「伏見桃山陵(京都)・明治神宮(東京)」を例にとれば、前宮の玉垣内にある「神陵と本殿」の関係がよく理解できます。

「御神所」と「前宮」

 寛政四年(1792)の『上宮諏方大明神前宮繪図』があります。宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』から、参照としてその一部を載せました。

八坂刀売命 建御名方命陵の説もあるので、ここが八坂刀売命の神陵かは別として、左の「御神所」が、現在(上写真)の瑞垣に囲まれている場所になります。右には社殿がありますから、この時代も「神陵と本殿」の二本立てということがわかります。このように、地元では明治の初めまでは「おはか・御神陵」と呼んでいたそうですから、天文から現在の平成までこの“構成”が続いていることになります。

言い伝えにある「御神陵」

 今井野菊著『信濃一之宮 諏訪大明神前宮遺蹟』に〔前宮遺蹟変貌記録(一)〕があります。その中から、「御神陵」を抜粋しました。

 前宮のおやま(土地の者はおやまと言う)の東部に諏訪大明神の御神陵が鎮まる。そして、その御神陵西部、前宮の拝殿となっている御霊位磐の正面が后神(きさきがみ)八坂刀売命の御神陵であると伝える。(中略)
 正面東に鎮まる建御名方命の御神陵は、神代から昭和七年までは単に高い「御神所一間半、玉垣二間」と古来伝える箇所であって、その神籬(みずがき)は七ヵ年に一回、御柱年に建て替え、その中央に古い藤の樹が生えているにすぎなかった。(中略)
 郷土ではお明神さまの藤の蔓を刈るとその家は絶える──と伝えている。
 明治維新頼武大祝のとき前宮正面裏の欅の巨樹が枯れた時(径八尺)大祝はこれを売り下げ、あとの切り株をも某等四人が買い受けて二、三尺掘り下げたところ、俄に卒倒する者、手足のしびれる者、発熱する者が出てそのため、おそれをなし中止し再び土をかけてしまったが、間もなく杣(そま)の頭をはじめ他の者も死んでしまったことがある。これを見た頼武大祝も熱を出して暫くの間動けなかったため神罰のおそろしさを今も語り草としている。
 その折り、掘り下げた御神陵のまわりは小石ばかり重なっていたといい、また笊に二、三ばいほど「経石」が出ている。(中略)
 大正十五年の「建ておんばしら」のとき、某は御柱を建てる際、邪魔になる御神木の藤の蔓を斧で伐りおとしたところ、その後すっかり神経衰弱になって長い間わずらい、お詫びに御神陵の後ろに杉の木を植え、それがいますくすくと育っている。
 なお現在の御神陵は御神木藤の古樹を中心に、単なる石垣積みの様相である。これは古え以来昭和七年までの御神陵とは全く似ても似つかぬもので、故意に築いた積み塚であるから御神木の藤の巨樹を中心にして周囲の巨樹の根元を削り掘って積み上げたものである。

藤の古木と神陵 ここには、神陵の場所が「東・西・正面」などと具体的に書いてありますが、何回も訪れている私でもピンと来ません。
 「東部─建御名方命・その西部─八坂刀売命」と読めば、八坂刀売命のお墓とした左写真の瑞垣が「建御名方命陵」となります。また、出土した「経石」から「御神陵は経塚」とも思えますが、そのことには触れていません。
 もっとも、今我々が目にする前宮の神域は昭和7年以降に“定着”した景観ですから、それを基準にして各神陵を当てはめるのは無理というものでしょう。それに、この書は「口碑をすなおに云い伝えねばならない」と断って(書いて)います。

 これについて、宮地直一著『諏訪史 第二巻前編』の補注から、「前宮及本宮並其附近史蹟踏査報告」とある部分を抜粋しました。

(前略)但し瑞垣を構えて人の出入りを禁じてある所と巨槻(つき※ケヤキ)を発掘した所とは、その間数間を隔て、建御名方命の神陵説を起こしたのは後者である。尚、ここには朱書の経石が散布しているというが、それは後に神聖なる地点として経塚に応用したためであろう。

前宮古墳

 「前宮古墳」と名が付いた古墳が、茅野市『茅野市史 上巻』の〔守屋山麓古墳群〕にあります。

 前宮の社殿下にあると伝えられているが、その実態は不明である。この古墳は上社祭神建御名方命の妻、八坂刀売神の墓との伝承があり、ここを掘ると病気になるという伝承があるが、尊崇され保護されるための伝承であろう。

 短い記述ですが、これを公の見解として挙げ、この項を終わらせることにしました。