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石船観音の御利益 岡谷市今井 24.10.19

 勤務先の岡谷市で車を購入した縁で、退職した今も(わざわざ)原村から岡谷の営業所へ出向いて点検を受けています。今回は車検なので、5時まで岡谷市内巡歩(暇つぶし)をすることにしました。しかし、何年間も恒例となっているので、これといった“目玉”がありません。初めて通る路地を選んで適当に右左折を繰り返していたら、柴宮(東堀正八幡宮)の杜が見えてきました。入口に案内絵地図があるのを知っていたので、「何かいい所が」とその前に立ちました。
 残された時間と戻る距離を考慮して、旧中山道を西に向かって歩くことにしました。岡谷市内の中山道は、国道“上”ではないので、道は拡幅されていますが旧街道の面影がよく残っています。「今井番所跡」まで来ると、意識になかった足の疲労感を一歩毎に感じるようになりました。もう、塩尻峠の登り口です。

 今回は、まったくの足任せという偶然の“出会い”だったので、(運命と言うには大げさですが)それを強調するために、長々とプロローグを書いてしまいました。

石船観音

 ここまで来たので、街道脇の案内板で見つけた「石船観音」に寄ることにしました。初めて見る(聞く)名前ですが「天の磐船(あめのいわふね)」を連想し、近くにある「大石」にも興味を引かれたので、下諏訪岡谷バイパスを見下ろす長大な歩道橋を渡ってみました。

石船観音「御篭堂」 人家がなくなると、これから峠越えという街道脇に石段の参道がありました。
 何か怪しげな(後で知った)「御篭堂(おこもりどう)」内にある「馬頭観世音」額(写真中央)を見上げ、再び現れた石段を登り詰めると小さな御堂が正面に見えます。石碑や石仏を左右に見ながらその前に立ちました。

石船観音堂 本堂は「石船観世音」を掲げています。御篭堂の「馬頭観世音」から本尊は馬頭観音とわかりますから、扉から下がっている一頭分の蹄鉄は納得できます。しかし、奉納されたワラジの存在が不思議に映ります。
 レジ袋の中身もワラジであることを確認すると、整合性がないと“突っつきたくなる”私は、馬と人間の足との関連性を“経験と知識”の中に見つけようとしました。しかし、立ちつくすだけに終わりました。

石船観音 本堂の横に廻ると松葉杖が奉納されています。新しいものがありますから、「足がよくなる観音様」として現在も信仰されていることがわかります。左側にも足首を固定できる子供用の靴が三足ありますから、短絡的な「馬」の先入観は棚上げにすることにしました。何かヒントが、と堂内の厨子を覗きますが、扉は閉まっていました。

「鳴沢の清水」

鳴沢の水神 本堂の上に山中へ続く道があるので、案内板にあった「大石」が「石船」のことではないかと登ってみました。
 沢筋に沿って登り詰めると、木の根方に御柱に囲われた石の祠があります。それより上には水の流れが見えないので、二筋のうちで足元に近い右側の先をたどると、木の根元から“いきなり”といっても過言ではない量の水が流れ出ています。この時点では知らなかった「鳴沢清水」でした。
 真夏なら「おー、冷たい」と言うところですが、水眼川(すいががわ)の水温を記憶している指先の代用温度計は13度と断定しました。茶碗が伏せてありますが、この上に除草剤を大量に使うゴルフ場がある可能性を思うと飲む気にはなれませんでした。
 帰りは、石段とは異なる小道を選びました。降りきった道は中山道で、そこに案内柱がありました。

石船観音   岡谷市教育委員会 
 本尊馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかであるといわれている。境内を鳴沢清水といって豊富な清らかな水が流れていて、参拝者の喉をうるおしている。例祭は五月の八十八夜ごろである。

 ここで、初めて石船観音の概要がわかりました。また、先ほどの水源から流れ出た沢が「鳴沢」と理解できました。鳴沢は『諏訪藩主手元絵図』の「今井村」に載っていましたから、絵図と案内柱の文字が一致しました。

鳴沢の清水 左は、鳴沢から分流した(多分同名の)鳴沢です。右の石が水盤ですから、塩尻峠方面から下ってくると、これが石船観音堂の御手洗となります。案内柱なので詳細は書かれていませんが、石段を往復していたら何もわからないまま帰ったことになります。草の色が不自然なのは、この季節では盛りを過ぎた緑と午後も遅い斜光の照り返しが原因です。

鳴沢の竜 上写真では得体の知れないモノとして写っていますが、余りの出来映えにアップにして紹介することにしました。ただし、「龍」としか説明できません。
 「夜見れば」と言っても夜間にこの場所を通るのは不審者しかいませんが、ギョッとすること請け合いです。いつ誰が設置したのかはわかりませんが、中山道を歩く現代の旅人は、これを見れば、一時ですが疲れを忘れるかもしれません。
 案内柱に「船の形をした台石の上」とあるので、引き返して再び本堂内を覗き込みました。「石船の上に厨子がある」と予想したのですが、通常の設置なので、厨子の中に「石船に乗った観音像がある(のだろう)」としました。

石船観音と三井浅次郎

 足の怪我は未経験である私には、治療用の靴や松葉杖が余りにも“生々しく”見えました。接骨医や病院での治療しか思い浮かびませんから、現在でも仏頼みが行われていることに、霊験はともかく、この石船観音の詳細を知りたくなりました。約束の5時にはまだ余裕がありますから、帰りがけに岡谷市図書館へ寄ってみました。
 今井区誌編纂委員会『今井区誌』に「石船観音」がありました。重複するので「本堂には石像二基が祀られている」とだけ紹介しますが、「明治末期頃の石船観音の登口」とある写真には、立っている三井浅次郎氏本人(後述)が写っていました。
 また、先ほどまでいた境内ですが、全然気が付かなかった「境内に次のような記念碑が建立されている」とある碑文が載っていました。

 石船観世音菩薩 紀元二仟六百年記念
信濃路に、(中略) 明治初年本郷村(※現在の富士見町)乙事(おっこと)の三井浅次郎なる者幼にして足を疾みて立たず、會々(?)霊夢に感じ母に伴われて此地に来り参籠して祈願し奉るに、不思議や忽ち癒えて嬉々として歩み帰えるに至れり、当時の人之を伝え聞きて、(後略)

 次は「2 民話(説話)」の章から転載しました。

石船様の霊験(浅次郎腰が立った実話
今井博康 今井伴之  
 中山道を今井から塩尻峠へ向かうと、中復にこんこんと湧き出ている鳴沢清水がある。この流れの傍らに祀られているのが、霊験あらたかな石船馬頭観世音である。
 明治初年、諏訪郡本郷村乙事の農家に三井浅次郎(文久三年生)という男の子がいた。一家は祖母・母・弟の四人暮しで大変生活に困っていた。そこで浅次郎は甲州(※山梨県)に子守奉公に出されたが、その奉公先で馬に蹴られて腰が立たなくなり家に帰って来た。一家はいよいよ困窮していた処、ある日石船の観音様が、浅次郎に神がかりになって現れた。
 「俺は四ツ屋鳴沢の馬頭観世音だ。俺を連れて一日も早く山辺(やまべ※松本市)の温泉に行け……」これを聞いた祖母はびっくりした。「それどころかこの貧乏家だ。お湯に行く金など一文だって無い。どうして行けるもんか」と、すげない返事をすると、観音様になっている浅次郎は、「とにかく家を出ればどうにかなる。鳴沢の石船観音まで行くと草履がある。それを履かせて塩尻(※塩尻市)のお寺まで行ったらそれをぬがせろ……」と観音様のお告げらしきことを言って口説くので、祖母はやむなく腰の立たない浅次郎を背負って家を出た。
 茅野(※茅野市)のすず屋の前まで来ると主人が居り、ありのままを話すと心よく一泊させてくれて翌日は弁当まで持たせてくれた。二人はやっと四ツ屋までたどりついて、増屋というお茶屋で弁当を使った。増屋の人遣に今までの話をすると、お茶代もとらず親切にして振る舞ってくれた。
 中山道を峠へ向かうと中腹に鳴沢の清水がこんこんと流れ出ており、山手は森林が茂り、下方には田んぼが広がり前方には諏訪の平が一望できる景勝の地である。「なんと素晴らしい所だろう」とつぶやきながらあたりを見回してよく見ると、馬頭観世音が祀られているではないか。その脇に不思議や不思議、浅次郎が口ばしった通り子供の草履が置いてあるではないか。祖母は思わず手を合わせて「南無観音様・南無観音様……」と拝んだのである。有り難く鳴沢清水で喉を潤してから草履を浅次郎に履かせ、出発するために背負ったところ、これまた不思議に浅次郎の体が軽くなっているではないか。
 そのため苦もなく峠を越え、塩尻のお寺の前で浅次郎を背中からおろし一休みすると、草履は自然に脱げてしまった。出発しようとして浅次郎を背負うと、これまた不思般に目方が元通りの重さになっていた。
 塩尻でも増屋という四ツ屋と同じ名前の旅籠屋に泊まった。此処でも親切にしてくれて翌日は弁当まで持たせてくれた。祖母は元気を出して浅次郎を背負い五千石街道(県道松本塩尻線)を山辺めざして歩いて行った。
 夕方やっとのことで山辺の「御殿の湯」に着いた。泊めてもらうために一部始終の話をすると、主人は気の毒に思い、祖母に手伝いをさせながら浅次郎に湯治をさせることにしたのである。浅次郎は何時も観音様を拝みながら一日に何回となく入浴して、一週間ばかり経つと不思議にも立たない足腰が立つようになってきた。二週間程で少し歩けるようになり、三週間で一人前に歩けるようになった。この話が近郷近在にひろがったので「浅次郎は定めし生き仏・生き観音に相違ない」と御殿の湯にお参りする人が絶えないようになった。宿の主人はいざりの立った絵馬を二枚作って、一枚は山辺の薬師様へ一枚は鳴沢の石船観音様にあげて、ご恩返しをするようにと浅次郎に与えた。四週間目になったので二人は暇乞(いとまご)いをして、浅次郎はいよいよ自分の足で五千石街道を歩いて帰ることにした。この話を聞いた沿道では村から村へと宿次で伝わり有名になった。
 浅次郎と祖母は、お礼参りに石船観音様へ絵馬を奉納して、三日一晩観音様にてお篭もりすることにした。伝え聞いて地元の今井村民ばかりでなく、遠方からも大勢の人達が生き仏を拝みご利益にあずかろうとして石船観音に集まって来た。中にはお供(そなえ)といってお菓子をあげると、その中からご利益にあずかろうとして貰って帰る者がいたり、筵(むしろ)を敷いておひねりをあげる者まで現れ大変な賑わいとなった。浅次郎のお篭もりがすんで乙事に帰ってからも、石船観音のご利益は当地方はもとより筑摩伊那(つかま・いな)方面へも評判となり、一時昼夜の別なくお諸りの人が絶えなかったという。
 石船観音の賑わいも、中山道の他に幹線道路の開削や鉄道敷設等が行われだすと、人々の足も次第に遠のき浅次郎のご利益の話も祭典の時にのぼる程度になってしまった。しかし大正の末のことである。信徒総代であった今井重一郎は、石船観音の以前のような賑わいを取り戻すべく「俺が浅次郎を探してくる」と言明して汽車に乗って探索に出かけた。苦労して乙事に着いてみると、浅次郎は不在で甲州の大八田に行っているとの事。帰宅後甲州の浅次郎宛に手紙を出してやっと連絡がつき、その年の八十八夜の祭典から招かれて来るようになった。爾来(じらい)毎年の祭典には昔の生き仏である浅次郎の見えない時はなく、石船観音も次第に本堂やお篭もり堂を新築して賑やかな祭典が催されるようになった。
 戦争の影響で祭典が縮小され、戦中・戦後しばらくの間、名のみにとどまっていた祭典も、平和な杜会に戻ると共に盛大に実施されるようになった。そこで浅次郎の動静を知るべく連絡をとると既に鬼籍に入っていた。今井区や観音委員会では浅次郎の子供(惣一郎・一平・ゆう・四郎)、孫(貴男・秋男・寿・折平・運平)曾孫(一男)等に祭典への招待を出しているが、毎年大勢参拝に訪れ、父・祖父・曽祖父の観音様のご利益に慕いながら仏縁をあらたにしている。

 「実話」とありますが、石船観世音菩薩碑の内容とは異なっています。碑文では「祖母が母」になっており、「山辺温泉の湯治」も登場しません。試しに、ネットで松本市山辺の「御殿の湯」を表示させてみましたが「藩主の御殿湯」としか説明がありません。“付加価値”を高めるために創作したのでしょうか。
 御殿の湯に“この霊験話”が残っていれば「石船観音と相互提携…」という話はさておいて、現在も観音総代会主催で例祭が行われ甘酒の接待をしているそうです。また、昭和48年から始まったマラソン大会が今でも盛んに行われていることを知りました。

旧中山道の大石

中山道の大石 因みに、文中に出てくる「大石」とは、高さ約二丈(約6m)とある「旧中山道の大石」のことでした。何の変哲もない固有名詞ですが、“怖い話”が伝えられているので、街道歩きを趣味にしている方は「夜はこの前を通ってはいけない」ことを忠告しておきます。

 まったくの偶然で知り得た石船観音でした。今、石船観音から見下ろせば、(直接は見えませんが)中央自動車道長野線の「塩嶺トンネル」が口を開けています。