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花見潟墓地 鳥取県東伯郡琴浦町赤碕 29.6.5

 花見潟墓地は、琴浦町赤碕の花見地内の海岸線沿いに広がる墓地で、約2万基の墓石が東西350mに渡って立ち並んでおり、自然発生墓地としては日本最大級と言われています。
『琴浦町観光協会』の〔花見潟墓地〕を抜粋

 以前、琴浦町にある八橋(やばせ)諏訪神社を参拝しました。自宅に戻ってから、小泉八雲・セツ夫妻が松江市から鳥取まで旅をしたときに、「花見潟墓地を人力車で駆け抜けるのに15分掛かった」という話を知りました。『怪談』を著した小泉八雲が選択したコースに、いかにも彼らしいと感じ入りました。9年前のことですが、それ以来花見潟墓地が気になっていました。
 今回は、車で走って、ドライブレコーダーに記録しようと思い立ちました。調べると、車では袋小路の道とわかり、眠っている人にとっては迷惑な計画を思い留めることができました。

 夕日に染まる花見潟墓地を望んだのですが、今の季節では2時間も待機することになります。この墓地を歩くことを最後にして、諏訪へ帰ることにしました。

琴浦町赤碕「花見潟墓地」

 駐車場から撮った墓地の全景ですが、広角では何を撮ったのかわからなくなりました。そこで、衛星写真を用意しました。[+]で拡大できますが、あくまで学術的な興味として観察してください。

 駐車場にあった「海抜13m」に不安を覚えました。日本海だからまずは安全と見込んだのですが、山の人間とあって、ここから降りるのに一抹の不安も…。
 右は、韓国ドラマ「アテナ 戦争の女神」のロケが花見潟墓地内で行われたそうで、ハングルで書かれた案内板です。日本の聖地巡礼と同じで、韓国からも訪れるのでしょう。

花見潟墓地「赤碕殿冢」 花見潟墓地を歩き始めて、まず目に付いたのが琴浦町指定文化財「赤𥔎殿冢(あかさきどのつか)」です。しかし、先に銘文を撮ったので、正面を撮ることを忘れてしまいました。抜粋で「この石造記念碑は、文政三年(1820)に当時の赤崎番所役人佐桐金左右衛門が願主となり、地元の友三良が中心になって再建されたものであり、創建は不明である」のみを紹介しました。

花見潟墓地にある神社 どこであっても、ここでは背後に石塔が見えますが、神社があると、ついカメラを向けてしまいます。しかし、祠の周囲を回ってみましたが神社名も祭神もわからず終いでした。
 すでに墓地は終わりを告げています。その端で、一台の車に付かず離れずという一人の人物に不審なものを感じていたのですが、近づくと、サーフィンを楽しんで帰り支度をしていた若者でした。

花見潟墓地「河原地蔵尊」 墓地から旧街道へ戻る途中にあった、町指定保護文化財「河原地蔵尊」です。こちらの説明も「総高4.3m。建立は西誉求方(法名)という道信者が発願主となり、延享四年(1747)に建立されたが、作者は不明」と抜粋しました。

 何か感じることがあって拡大すると、河原地蔵の右側にある宝珠を持った像の顔が…。かつては露天の安置所で、海水を含んだ風で浸食されたのが原因と思いますが、その時は気がつきませんでした。当日も、海岸から旧街道の家並みにかけて、海水のしぶきで煙霧のように霞んでいました。

「人力車で15分」

 実は、花見潟墓地を歩き切る時間を測っていたのですが、地元民に話しかけられて断念していました。その代わりとなる墓地の長さを地元では「350m」と謳っていますが、疑い深い私とあって地図上で測ってみると、…ほぼ同じでした。早足なら5分の距離ですから、(今となっては出所不明の情報)「人力車で15分」は誇大表現ということになります。しかし、明治24年という時代と敬愛する小泉先生のことですから、許しましょうか。

 「明治の本なので著作権は切れているはず」とネットで探すと、『電子テキスト』に、田部隆次翻訳の小泉八雲著『日本海に沿って』がありました。関係する部分だけを抜粋しました。

 はどなく、進むうちに、左手の青色の波浪の単調と、右手の緑色の大波の単調とは灰色の墓地の出現によって破られた、──それは私どもの車夫が全速力で走って、その直立した石の大きな群がりを通り抜けるのに十五分は充分かかるほど長い墓地であった。

 「左手…・右手…」の対比が意味不明です。翻訳が不適切とも思ったのですが、左側の青い海と、右側の旧街道沿いに続く緑の木々(防風林)を表現したものと理解できました。墓地へ続く道は、その間にあったのでしょう。

昭和23年の花見潟墓地

 国土交通省『国土画像情報』に、米軍が11月22日に撮影した航空写真がありました。国道9号は、まだ建設されていないことがわかります。

花見潟墓地の航空写真

 立木の影が長く延びてハッキリしませんが、墓地の左方で縦貫する道の上部分は、まだ余裕があるように見えます。その後の多子化で分家が増え、徐々に延びていったのでしょうか。