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言成地蔵尊(いいなり地蔵) 下諏訪町 30.1.29

 山王閣は営業を終了し、現在は更地になっています。その端から眺めると、かつて存在していた神宮寺が一望できます。ただし、今は痕跡さえも残っていないので、古絵図片手に「あの辺りが…」と想像をたくましくするしかありません。

 思いついて、武居稲荷社からの帰りに言成地蔵に寄ってみました。「下諏訪観光協会」が設置した案内板です。

いいなり地蔵
 誰の願いも言うなりに叶えてくれるので言成地蔵尊。元禄年間諏訪神社の神宮寺の境内に安置され善男善女の信仰篤く毎日お参りする人が絶えなかった。明治元年神仏分離令が公布され神宮寺が廃寺になり、言成地蔵尊は萩倉の薬師堂に安置されたが、毎日少しずつ前にあった方に移動するので信者も驚き、話し合った結果、地蔵様のお心を思い元の位置(現在地)に戻し安置する。当時は諏訪の平を一望する眺望地であった。
いいなり地蔵

言成地蔵 「ネットで紹介するから」と言い聞かせながら、御開帳してみました。改めて拝顔すると肌にハリがあり、とても元禄生まれとは思えません。
 ここで、案内板の設置者が観光協会で「元禄」の根拠も併記されていないことから、その誕生日を疑い始めました。しかし、「恐れながら実年齢を」と衣を持ち上げるのは、言いなりになるにしても、それを実行するスペースがありません。一連の非礼を詫びながら扉を閉じました。
 これで終わらないのが、このサイトの“凄い”ところです。引き続き、御覧ください。

「元禄」銘がある灯籠の竿

言成地蔵 堂前に、円柱の石造物が埋まっています。「奉寄附常夜燈」とあるので、常夜燈(灯籠)の竿であることがわかります。
 壊れやすい火袋が失われているのはよく見ますが、基台がないことと不安定な石垣際という位置から、竿のみがここへ(運ばれて)設置された可能性を思いました。

法印憲清 「秋宮に同じものがある」と聞いていたので、前から見当をつけていた一之御柱へ向かいました。
 その下方に、「当社之犬射馬場」などの石碑に並んで同じものがありました。傾いているのは「ただ置いてある」ということなので、「神宮寺住法印憲清・元禄十二己卯(1699)九月吉(日)」と、銘のすべてが読みとれました。

憲清さんを探せ

 諏訪の図書館では、上社・下社の神宮寺関係の書物はこれしかないという今井邦治著『諏訪上下社神宮寺資料写眞集』があります。所載の『海岸孤絶山起立書』にある〔海岸山先碑暦代〕を順に追うと「法印憲清」の名があり、彼が66才の時に、今は竿だけ残った灯籠を建立したことが判明しました。

第三十三世 法印憲C大和尚字は教俊房宮沢氏、諏訪駒沢邑の人也、(中略)次に当社神前并(並)に千手宝前常夜燈各二基建立元禄壬申(1692)玄奘坊に退休、入滅宝永二乙酉(1705)五月二十八日行年七十二歳、

 しかし、神仏習合の時代とわかっていても、ここに書かれた「当社の神前」をどう解釈したらと悩みます。結局は、「当山」ではないので、「秋宮の神前」と理解しました。その竿が秋宮の境内に残っていることが説明できるからです。
 これで、言成地蔵の前にある竿は、千手堂にあった常夜燈ということになります。竿だけが置かれているのが不思議ですが、縁故の人が、憲清さんの名が刻まれた竿を記念(顕彰)碑として縁の神宮寺跡に設置したと考えました。

言成地蔵尊誕生地

言成地蔵尊と神宮寺 前出の『諏訪上下社神宮寺資料写眞集』に、『信州諏方法性宮本地 海岸孤絶山法性院神宮寺境内圖』が折り込まれています。「慶安の頃」と説明がありますが、私は、大門の階段(きざはし)が描かれていることから宝永以降に作られたと推定しました。
 絵図なので正確ではありませんが、蓮池の近くに仏像が描かれ「ヂゾウ」と添え書きがあります。この地蔵が、廃仏毀釈で萩倉に移され、その後神宮寺跡に戻った言成地蔵の可能性があります。
 その線に沿って(一つの可能性として)、『神宮寺境内圖』にその変遷を表してみました。