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高部の薬師堂 茅野市宮川高部 29.8.26

 「…今日は茅野市高部薬師堂の例祭日ということで行きました。目的は蚕玉様です。ところが人気が無いので守矢史料館で聞きましたところ、例祭日は明日とのこと…」とメールを頂きました。「高部の薬師堂」なら、あそこしかありません。
 実は、守矢史料館の隣にある薬師堂が「神長官と繋がりがある」ことを知って以来、何かと気になっていました。しかし、民家の半分が御堂という造りで、しかも常時閉ざされています。人目が気になる場所なので大祝廟から見下ろすだけで終わっていましたが、今日は例祭日ということですから、本尊の拝観が可能になります。しかし、メールをチェックしたのが一日経っての2時過ぎでしたから、「まだ間に合うか」と焦りながら高部へ向かいました。

薬師堂参拝 28.8.20

 守矢史料館の館長から、「裏の道を…」と教わりました。見回して見下ろして、境内に直接降りるような踏み跡の下に段状の物が“設置”してあるのを見つけました。近道というか直路(すぐじ)というか、それに足を掛けて降り、蔵の前を廻ると、大戸を取り払った薬師堂が現れました。

 蔵の前にあった「薬師堂」の案内板です。

 別名「観音堂」とも呼び、「オヤクシサマ」と言う。
 諏訪百番霊場のうち二十一番札所で、聖観世音を安置し、昔は八月十九日の「焼飯祭(やきめしまつり)」でにぎわった。今でも、その前後の日曜日の午後、お薬師祭と言って、高部公民館を会場にして、高部区民の祝宴が毎年行なわれている。

 「すいえんもその名高部の観世音
 とうかくむくにいたらしめなん」

信心講

がある。(詠→御詠歌?)
 堂前を通り県道に至る小路は「薬師小路」と呼ばれる。

 薬師堂へは、急ぎながらも、ナフコの駐車場に車を置き徒歩で来ました。その道中で、珍しく高部公民館の玄関戸が開け放たれていたので、座卓を挟んで向き合っている姿を見ていました。これを読んで、中は飲み食いの最中であったと理解したのは言うまでもありません。今でも、メインディッシュは“チャーハン”でしょうか。
 これは自宅で読み直しての話ですが、御詠歌の「すいえん」は高部の「高」に引っ掛けた水煙とわかりましたが、「とうかくむく」はわからず仕舞いでした。その後、田中積水著『諏訪郡霊場百番札所詠歌道記』で、「等覚無垢に至らしめなん」とわかりました。「これは手抜きの案内板」と指摘しても、今のところ設置者が不明です。

高部薬師堂
郷蔵薬師堂旧集会所

 上写真では左端から「L」字に降りましたから、この写真では撮影者の背後にある正規の参道をまず確認しました。「ここに出るのか(ここから入るのが)」という、時々通る「薬師堂通り」でした。

 開け放たれた堂内にいた接待役というか留守番の女性に、拝観時間は4時までと聞き、撮影の許可を得てから何枚か撮りました。

高部薬師堂「堂内」

薬師如来像 壁紙が、歴史を感じる色に染まっています(金箔ではありません。念のため)。一部が剥がれた裏張りに文字が見えます。「何か重要な新発見が」と期待して写真に収めました(が、意味不明でした)。
 中央右の黒い厨子内に安置されているのが、左の薬師如来です。他に種々多様な像が並んでいますが、『高部の文化財』に詳細が載っているので、ここでの説明は省きました。

亀乗御鉄塔 端に置かれていますが、見応えがあるのがこの鉄塔です。「保元(1156〜)」と読んで、これは“知られざる国宝”ではないかと驚きましたが、カメラのファインダーに明るく浮かんだのは「寛保元辛酉年」でした。
 説明は、『高部の文化財』にある〔亀乗御鉄塔の普賢菩薩像〕にお任せしました。「見事な鋳造製の亀乗御鉄塔があり、内には乾漆で金色に輝く普賢菩薩像が安置されている。塔の高さは一・三m、横六四cmで、亀は激しい顔立ちをしている。甲羅の上に御鉄塔が乗っている。そして更にその上に普賢菩薩像があって、堂々たる仏の構え像である。御鉄塔の作は名工だろう。鋳物師小嶋紀友作寛保元年(一七四一)との印がある。(後略)」

高部の薬師堂 過去に何回か、畑の縁に当たる左下の緑地から、荒れ果てた薬師堂と石仏を見下ろしてきました。
 今日は、そこから、きれいに清掃された御堂と境内を見返りながら帰途につきました。写っていませんが、左方が大祝廟です。

 薬師堂と繋がった建物は、公民館ができるまで使われた高部の集会所でした。また、蔵は高部の「郷蔵」と、後の調べで知りました。

薬師堂と神長官

 高部歴史編纂委員会編『続 高部の文化財』から、〔仏教との関係〕を転載しました。

 神社に本地垂迹説が入ったのは平安末期といわれるが、本宮には神宮寺・如法院・蓮池院・法華寺ができ、本地佛は普賢菩薩であるということになった。
 下社春宮は薬師如来、秋宮は千手観音ということなので、前宮にも当然本地佛かあるはずであるが、前宮にだけはない。また前宮周辺に大阿弥陀・薬師堂はあるが、中枢には寺関係は何もない。神長ががんばって入れさせなかったという話である。
 しかし神長は、自分ではこれからは仏教もしっかり勉強して置かなくてはいけないと、かなり研究し、勉強していたようである。
 まず、大祝に神おろしをする際の呪文の中に密教の文句を入れ、他の者には真似の出来ないようにしたらしい。次に神長の本地佛は薬師如来であるとして、薬師堂を建て、薬師如来は薬の製作にかかわると、諏訪薬という特効、万能薬を製造販売した。諏訪薬の現物は残っていないので成分はわからないが、ツキヌキソウが主成分であるらしい。一説によると、諏訪グスリの成分は、「独用将軍(ツキヌキソウ)、鹿・猿・蛇の黒焼き、風露草、高遠草、桔梗、胡頽子(グミ)、祈祷殿の香灰(神灰)」といわれるが如何にももっともらしい。
 薬師堂は神長が建てたものであるが、いつ造ったかははっきりしない。古今家談に「抑久云比薬師堂ハ大同年中坂上田村丸諏方上社普賢堂ヲ建立ノ時先代彦丸(清実?)君開基セシモノナラン」とあるが、普賢堂は正応六年(一二九三)知久敦幸が建てたもので、五百年も後のことである。本宮の出来たのが大同年間と思われるので、仏教が同時に入ってきたとは考えられない。実久はナランといっているが、神宮寺が入ってきた後のことだろう。

 『高部の文化財』の〔薬師堂・薬師如来〕から抜粋しました。

 又この薬師堂には、神長口伝の良薬で諏訪薬と称する秘薬があった。良民の間で珍重がられ、評判の薬剤であったとの伝承もある。

焼き飯祭り

 〔伝統の祭り〕から、[焼き飯祭り]の一部です。

 「まつり」は、その名の通りかつては、ほうろく鍋(大型フライパン風)で飯を炒め、それを仏前にお供えする習わしがあった。「まつり」の由来が偲ばれる祭礼行事である。なぜ焼き飯にしたかは、諸説を聞くが、焼き飯は味もよく、お供え物として、夏場に長持ちするためという説があるがどうだろうか。兎に角如来のお仏前に、ずっとの伝来で供えたことは確かなようである。

鋳物師「小嶋紀友」

 「鋳物→小嶋」に引っ掛かりがあります。自サイトを調べると、南真志野にある秋葉神社の鐘に「鋳工 小嶋郡良」がありました。「鋳物師 小嶋」で検索すると、ネット上では両者とも消息が知れませんが、サイト『公益の財団法人八十二文化財団』の〔信州の文化財〕に、南佐久郡小海町指定有形文化財「梵鐘」として、以下の解説がありました。

鋳物業が行われていたのは上田の常田村で、この地方には「常田の鋳物」という言葉があり、3人の鋳物師が下野(栃木県)から天明のころ移ってきたといわれている。3人の鋳物師は鍋家と言われ、それぞれ「鍋八」の半田八郎衛門、「鍋久」の小嶋久兵衛、「鍋大」の小嶋大次郎である。鍋八は小県郡、佐久郡、鍋久は更級郡、鍋大は埴科郡の鋳物師であった。(後略)

 「鍋」から思いついて『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』を読み直すと、

一、清水町大屋小嶋佐市カ 延宝元年(〜)安政三迄百八十三年御殿様にて御用有之(これあり)上田町より御呼寄せ御用済候所、次男に而も有之哉、此方に居る、又上田町大鍋屋弘治元年安政三年迄三百年程下野国佐野と云所より来候由、

諏訪教育会編『復刻諏訪史料叢書第三巻』

 とあり、(諏訪市)清水町に屋号「大鍋屋」の鋳物師がいたことがわかりました。名前が佐市カなので、彼の次男を中心とした一派が諏訪での鋳物を一手に引き受けていたことが窺われました。