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「休石」を探せ 茅野市上原 29.8.18

休石(諏訪市四賀)
 諏訪市四賀の「休石」(28.10.24)

 平成27年にアップした『旧神戸村を歩く』の一項〔再び、大マラ様 27.11.11〕で、

 謎の石碑を見つけました。国道脇のアパートの敷地沿いにポツンと立ち、「休」とだけ彫られています。いったい何でしょうか。

と紹介しました。写真無しの、しかもオマケのような最後の三行ですが、それに反応してくれた方から「場所を教えて欲しい」とメールが来ました。私以外にも興味を示してくれた人がいたことに嬉しくなりましたが、お礼のメールには「諏訪市内で5基目の確認です」と報告があり、諏訪でも休石が多くあることを知りました。

「休石」とは

 私が目にしたのは「休」としかありませんが、これを「休石(やすみいし)」としてネットで調べると、「休石温泉」や「中島みゆきの歌」ばかりが表示します。私を含む二人には貴石のような存在であっても、一般には誰も振り返らないものということでしょう。

 突然、とは大げさですが、急に休石への興味が再燃しました。しかし、諏訪の図書館には「休石」の情報がないことがわかっています。やはり、ネットで探すしかありません。今回は「休石 道」で検索すると、…ほぼ同じ結果です。「休石 街道」に替えてみると、「じゃーーん」…私が求めているものがトップに表示しました。その『溝延田井街道の休石』にある案内板の写真から、説明文の一部を転載しました。

休石とは、重荷を背負って行き来する人々が、途中で一休みする際、腰をかけたり、負い荷を降ろすことなく支えたりする石で、交通の要所に設けられた。

 どういうものかは想像していましたが、山形県西村山郡河北町のお墨付きがある文字として確認できました。しかし、冒頭で紹介した「休」石は、腰を掛けたり荷を支える用途には向いていません。これは、存在価値を失ってから日が経ち、移転や破損などで現在の状況になったと想像できますから、取りあえず「休みたい人は休め」石と命名しました。

休石(諏訪市四賀) 改めて現場に立つと、砕石に覆われたスペースが、突き当たりはJRの線路ですが、かつては山際まで続いていた道であることに気が付きました。
 自宅に戻り、これを『諏訪藩主手元絵図』で確認すると、神戸(ごうど)村の御蔵(郷蔵)脇を通り旧甲州街道に繋がる道でした。

ここでは便宜上「旧甲州街道」としたが、山浦道・
大門道・古道(ふるみち)・慶長道路などの名がある。

 こうなると、休石は他にもあるはずと一気にテンションが上がります。この地籍は諏訪市四賀ですが、目の先(南)は茅野市上原です。中世では城下町でしたから、休石が設置されていてもおかしくない小路が幾つも並行しているからです。

 高揚感が冷めない内に、と「休石 甲州街道」で検索すると、幾つかのサイトで「休石」を紹介しています。地元の私が知らないのも口惜しいのですが、街道歩きを趣味とする人々の間では結構知られている存在なのかもしれません。さっそく〔ストリートビュー〕で甲州街道と重複する「渋沢小路」を“走って”みると、文字は読めませんが、掲載写真と同じ石がありました。

 この二例、即ち諏訪市四賀と渋沢小路にある休石の設置場所から、上原ではJR中央東線と各小路が交差した近辺にあると睨み、その場所を重点的に探すことにしました。





マイマップに、城下町の町割りとなる小路と休石を表示させてみました。
「四賀の休石」は、縮小(−)すると表示します。


休石の探索 29.8.13

播磨小路の休石

 もう一人の自分がささやく「涼しくなってから」の声を遠ざけて、基点とした葛井神社から炎天下の道を歩きます。上原史跡保存会が設置した「鍛冶小路」碑を見、坂道の左右に目を配りながら上りました。しかし、盆休みでしかも日曜の昼下がりとあって、開け放した玄関や窓からは、内容がわかる話し声が伝わってきます。暑さは我慢できますが、目をキョロキョロさせるのは、やはり日時を誤ったようです。
 鍛冶小路は、線路との交差は跨線橋になっています。降りる道も私道の可能性があるので、上から見下ろすだけにしました。しかし何事も起こらずに旧甲州街道に突き当たり、次の「塔所小路」もただ下るだけという結果になりました。

 国道を歩けば、普段は車からザックを背負った街道歩きの人々を「ご苦労様です」と眺めてきましたが、今日は立場が逆です。信号待ちの車の脇では、閉め切った窓の向こう側にある顔から「物好き」との表情が読み取れますが、意外と風があり胸を張って歩くことができました。
 次は「播磨小路」です。小路に接した空き地の縁(へり)に石造物が並んでいるのを見て、持参した“江戸時代の道路地図”を参照すると「西方堂」でした。

休石(播磨小路)
休石

 そこから踏切の手前に交差する道の左右に目を光らせると、電柱の根方に何かの石が見えました。

休石(播磨小路) 「もしかして」との期待を込めて草を払うと、文字が現れました。下が「石」と読めるので、上は「休」としたいのですが…。彫りが浅いので、自分の欲目でも確定できません。
 裏に廻り、刈り残されて長く延びた草を踏み倒すと、小さな字ですが「休石」がハッキリ確認できました。「私の新発見」としては、久しぶりの快挙となりました。

渋沢小路の休石

休石(渋沢小路)
休石

休石(渋沢小路) 今日は自分の足でJRのガードをくぐると、ネットの写真と同じ光景が現れました。日陰となったガード下で一息ついてから撮ったのが、上の写真です。
 「休石」の書体は、播磨小路の裏面と同じでした。石柱の大きさ形状もほぼ同じなので、上原村の石工が作った規格品の可能性を思いました。メジャーを持参しなかったのを後悔しながら指尺で測ると、地上部は17×4で68cmてした。裏側も確認したかったのですが、生垣が邪魔で無理でした。
 その前を細道が斜めに横切っていますが、その先を目で追うと田圃の畦道になっています。やはり、渋沢小路にあったものを道路の拡幅で移したものと考えました。

 今日は、自分の足で見つけたものを含む二基の休石を紹介できました。しかし、実際に歩いてみると、公道と思える小道でも人家が迫っていれば、近づくことは勿論目をやることさえも憚(はばか)られます。(現実には恥ずかしくて無理ですが)「只今、休石を調査中」との桃太郎旗でも掲げなければ難しいと感じました。

 遊女小路は、現在も当時の道幅が残っているように見えます。そこに休石があれば当時の状況(原位置)が確認できると思いますが、可能性のある場所は民家やアパートの敷地となっています。探すのは勿論、近づくことも断念しました。

 中島みゆき作詞作曲『休石』は、著作権の関係があるので1フレーズのみを紹介しました。

「もういいよ」 休石(やすみいし)で休んで待っていてね

昭和初期の地図

休石(播磨小路) 『スワニミズム』のフェイスブックに、「地図好き集まれ!明治43年当時の地形図をどこでも見放題の神サイトが話題に!」とある投稿がありました。
 「これはいい!!」とダウンロードし、ここに関係する部分を切り取ってみました。ところが、「明治四十三年測圖昭和六年要部修正測圖…」とあるので、昭和初期の作成とわかりました。…残念。