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横谷観音(横谷聖観世音菩薩) 茅野市北山 23.9.16

 「横谷観音入口」の標識に従うと、直ぐにトイレ・休憩所が完備した駐車場に着きます。そこからは、車道・遊歩道のどちらを選んでも5分内外で展望台がある広場に出ます。

横谷観音堂

 広場と言うか境内とするかは迷うところですが、その隅に観音堂がありました。
 ここへは標題の「横谷観音」で来ましたが、案内板を読んで、正式な名称が「横谷聖観世音菩薩立像」と知りました。さっそく拝観としましたが、目が慣れてくると、観音像が足元から蓮華台座にかけて白く変色していることに気が付きました。この時は、外光の反射と頷いて観音堂を後にしました。

 その後、『糸萱区誌』で「伊勢湾台風で覆屋の損傷があった」ことを読み、一時は風雨にさらされた時期があったと合点しました。

「横谷聖観世音菩薩由来」

横谷観音 今回は舟石探訪がメインだったので、案内板「横谷観音由来」をメモ代わりの写真に撮ることを忘れてしまいました。「さて、どうしようか」とネットで検索すると、都合よく全文をテキスト化したものが載っています。
 通常、案内板などの文言は文字に変換するのが面倒なので、写真で代用します。私は“テキスト化派”なので、「これはありがたい」と、早速“コピペ”の恩恵に与(あずか)りました。ところが、モニター上の文字を読んでみると、明らかな誤字や意味不明の語句が数箇所に渡って見られます。
 再検索すると、多くのブログがテキスト文で紹介しています。不思議に思いながら読んでみると、完全に同一の文言です。これで、一番初めにアップした人の「間違った由来」が、コピペの連鎖でネット上に定着してしまったことがわかりました。

 後日手に入れたのが、“オリジナル”の案内板です。

横谷観音「案内板」

 これを読むと、なお意味不明な文言()が見られます。その後、案内板の『由来』は『糸萱区誌』から引用したものとわかり、私の注釈(◯◯)を加えて転載ました。

 昭和十二年元陸軍中将市ノ瀬源助翁がたまたまこの地に来られ、山紫水明秀麗の正気(みなぎ)る雄大なる横谷仙峡に護國(国)の霊地を築かんと地元財産區(区)一部事務組合(※特別地方公共団体)と相計り巨木の富める金沢國(国)有林の浄き深山より元木を芳樹し當(当)時の金沢村木舟区大島武左衛門氏宅を借り彫刻家小川由加里氏に依頼する。
 小川氏は斎戒沐浴(さいかいもくよく)半歳(年)に亘(わた)り心魂籠(こ)めし力作にて御丈(たけ)六尺有余慈徳示現(じげん)の御尊像を完成す。
 奉賀の行列賑やかに長途(ちょうと)を迎え勧請し小原龍海僧正が入仏法要荘厳に拝して横谷聖観世音菩薩と奉稱(称)す。以来四十年組合員の信仰も厚く昭和五十年十月御堂の新築を見るに至る。
糸萱区誌編纂委員会『糸萱区誌』から〔横谷観音〕

 案内板と同一の『由来』を読むと、「正気(せいき)」は、「精気」または「生気」にした方が私の好みに合います。それは表現の綾としても、ただ一つ気になるのが「芳樹」です。「芳(香)しい木」では意味が通りませんから、(勝手に)「奉受」の誤記だと断定しました。「市ノ瀬源助」も(ネットの調査で)「市瀬(いちせ)源助」の間違いとしました。
 いつもの習いで案内板と『区誌』を突っついてしまいましたが、観音様ではなく「由来」の方なので構わないでしょう。
 以下は、前記の後に続く文です。

「奉賀の行列賑やかに…」とあるように、横谷観世音をここに安置するには非常に賑やかに行われたようである。牛車に横谷観世音を載せ大勢の人達が現地まで歩いて同行した。糸萱の念仏講や芹ヶ沢衆は、前々より練習した横谷観音の御詠歌を奉読し祝ったという。今の御堂ができる前は、四角に囲った簡単な箱のような建物だった。しかし、昭和三四年(一九五九)九月二六日の伊勢湾台風で壊れたためコンクリートで作り直した。その後今の建物になった。(後略)

 横谷観音は、昭和十年代という時代だったからこそ造立できたのでしょう。私は、つい「元中将の肩書きを持つ人の発案に、懐豊かな財産区が節税対策で乗った」と偏見の目で捉えてしまいました。


‖サイト内リンク‖ 横谷観音堂の前にある「謎の蛇体仏」