研修旅行のフリータイムを利用し、「平安建都千二百年祭」の期間中でなければ拝観できない未公開文化財特別拝観として、宝鏡寺「人形展」・大徳寺「方丈・庭園・唐門」・光悦寺「収蔵庫」のコースを単独で組んだ。
「宝鏡寺から堀川通を北へ向かい、北大路通との交差点を左折」といっても、歩いている本人には東西南北や通りの名称などの自覚は全くない。地図に表示された広い道を誌面の上に向かって歩き、「大徳寺」の標識があったらそこを左へ曲がる、という程度だ。
突然「紫式部墓所」の文字が目に入った。まったく頭に無かったので戸惑ったが、これは寄らずには済まないと、その路地に入った。
工場の敷地に食い込んだような墓地は、三方を「島津製作所の塀」に囲まれていた。道路から奥まっていることもあって、秘密の花園ならぬ墓地に迷い込んだようだった。ガイドブックには「確証はない」とあるが、整備され立派な顕彰碑が建立されていることから、両人縁の人達の熱意が高じての「私設史跡」なのだろうか。
目を引いたのは墓そのものではなく、雨除けのビニールで覆われた木箱と一冊の大学ノートだった。箱を開けると、顕彰碑の碑文と説明文が書かれた大判の紙の束があった。
ノートを開く。最後(最新)の二つは女性のもので、就職とか大学の文字から二人とも二十歳前後と想像された。それ以前は、住所氏名と一言二言の書き込みがほとんどだから、最後の女性は前の人の書き込みに影響されて長文を書いたのだろう。
二人の文面からは、まだ書き切れていない幾多の心の揺れが感じられた。心の内を開いた相手が紫式部なのか小野篁なのかは分からぬが、その墓前でたたずんでいた女性を思い浮かべると、今までの「京都観光」は「京都旅情」に変わった。
偶然に立ち寄った、京都の小さなポケットの中に慎ましやかにあった「紫式部・小野篁墓」だったが、その傍らにひっそりと置かれた一冊のノートは、図らずも、見ず知らずの二人の心を覗き見したような妙な気分にさせた。
大徳寺から光悦寺への道を確認する中で今宮神社があることに気がつくと、もう「あぶり餅」である。
改めて永田萌著『京都夢見小路』の発行年を確認したら昭和60年だった。今となっては購入した動機も不明だが、期待通りの絵とエッセイに当時としては高額の千二百円も惜しくなかった。
そのある章に「あぶり餅」というのがある。今宮神社の名物で、余りのおいしさに通い詰めたとあり、そのことが神社の名前と共に記憶の隅にしまい込まれていた。
今宮神社への参道を挟んであぶり餅を名物とする二軒の茶店があり、それぞれにひいきがあることは前出の本で知っていた。その路上で、左に当たる「かざりや」の客引きに盛んに勧められた。すでに、店先で餅を焼くおばあさんの姿が見えていた「いち和」と決めていたので、即背を向けて商売敵(しょうばいがたき)の店に入るのも気がひけて、この場は一旦通り過ぎることで彼女の面子を立てた。
餅が目的だったが、行き掛かり上、今宮神社に敬意を表してから、再び香ばしい匂いに包まれた現世に戻ることとなった。
座敷には上がらず、焼く姿が見える店先の椅子に腰をおろした。今日は、車中でのパンと京都文化博物館内の名店街の試食用の煎餅をかじっただけだったから、目の前で焼き上がった餅が奥へ運ばれて行く度にお預けを喰ったようで待つ時間が長かった。
「おばあさん」と言ってもこの店のオーナーかも知れないが、親指の先くらいの茶色の塊に次々と串を刺しては焼いている。しばらくして立ち上がり姿が見えなくなると、「一人前五百円」の品書きが目についた。「5に0が二つ」に感じたイヤな予感は、ようやく運ばれてきた皿に置かれた串の数を目で数えた結果、現実のものとなった。
あぶり餅は、「黄粉をまぶしたワラビ餅を一個だけ竹串の先端に刺し、少し焦げ目がつくほど炭火であぶって甘辛い味噌のタレをかけたもの」と書けば、おおよその想像してもらえるだろうか。しかし、五百円に対し、15本の「竹串」だけが目立つ現況に、ここが今宮神社の境内であるから付加価値が高いのだ、と財布に謝り自分に言い訳した。
「備長炭使用の証」がさり気なく壁に貼られて更に価値が高まった一本33円は、限りなくゆっくり・じっくり味わって食べる努力をする前に消えてしまうほど小さく、過半数を食べ終えると急激に数が減って空串だけが目立った。しかし、値段を知ってか知らずか、お代わりの注文も結構あった。
永田萌さんは、学生時代の話として「お代わり(当時は一皿10本)の連続で竹串の山」と書いていたから、その代償より食い気の方が優っていたのだろう。
昔、エンゲル係数が高いほど貧しいと教わったが、現代はグルメ指向なので「食」にかけるお金が多いほど豊かな生活とも言える。その中で「五百円」にこだわるのは、係数では「一見豊かに見える」自分のひがみだろう。
平成6年5月