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北の博物誌 北海道

キタキツネ

 昨夜、JAF(日本自動車連盟)に知床横断道路の状況を確認したら、「今日は12時に開通したが、雪で3時には通行止めになった」と返ってきた。チェーンを持っていない不安に「明日は」と問うと、「天候次第だ。道路開通の条件は普通タイヤで走行できること」との返事にまずは安心した。

 宇土呂8時始発の遊覧船で知床半島巡りを楽しんでいた時は晴れていたが、港へ戻る頃には徐々に雲が広がってきた。取りあえず知床自然センターを見学し、後は行けるところまで行こうと走り出した。ところが、すぐに現れた案内標識は「本日10時開通」と告げている。助かった。知床峠が不通になると、袋小路になってしまうこの道は引き返すのに40キロも要するからだ。

 駐車車両も疎らな知床自然センターは落ち着いたワィンレッドを基調にした大型の施設だが、オープン間もないのか周囲の景観からは少し浮いているように思えた。
 内部は、シアター(劇場)・売店・喫茶コーナーとなかなかしゃれている。そのシアターで「四季 知床」と題する映画の上映がある。五百円は高いと思ったが、事前講習ということで入場券売機の前に立った。
 釣り銭の表示パネルが赤く点滅している。思わず周囲を見回した。やや離れた場所では、一見支配人風の男性が館内を見回している。さりげなくその場を離れ、券売機に注意を留めながら一回りして再び近づいた。すばやく釣り銭の五百円玉を取り出し、それを投入した。
 首尾よく無料の入場券を手にしたが、館内に入って驚いた。何と、階段状の椅子席でかなり本格的な収容人員三百人という広いホールは、カップルが一組と他には若い男性が一人だけだった。となると、たぶん二番目に入場したどちらかの忘れ物となる。
 待てよ、そうなると、猫糞(ねこばば)したのは最後の入場者と、極単純な推理で犯人は特定してしまうではないか。しかし、それも釣り銭忘れを思い出しての事だと、知らぬ存ぜぬを決め込む事にした。なまじ離れて座ると疑惑の目で見られかねないので、彼らに付かず離れずという座席に腰を下ろした。

 上映前のスクリーン脇で、三百分の四人のために、挨拶と解説を真面目にしてくれた若い女性職員の真剣さと、余りにも少なくてそれに応えられない観客に、「地の果て」を意味する「知床」を感じた。しかし、外界とを遮断する見えないコンクリートの殻に覆われた居心地のよい空間に、「今知床にいるんだ」という感覚は次第に遠くなっていった。
 空撮を駆使した映像と音楽は素晴らしかった。ここにも動物達が数多く登場しているが、やはり北海道のアイドルというかマスコットは、キタキツネだろう。

 終了時にも挨拶をしてくれた、国立公園のレンジャーっぽい制服(多分作業服)を着た職員に、繰り返し流れたBGMの曲名を尋ねた。その原正美作曲というオリジナルのテーマ曲が気に入ってしきりに口ずさんだが、1時間後には編曲の手が入り始め、3時間後には初めの一小節をリピートするのみとなった。

 高曇りとなった知床横断道路は路肩に雪の壁が残り、融けた水が路面を黒く濡らしている。ストップランプを点けたままの乗用車が止まっている。助手席側から腕が延びた。その先を目で追うと、何とキツネが顔を出している。何か食べ物を与えているようだ。満足したのかその車は走り去った。
 同じ様にその場所に停止すると、まだ薮の中にいるのが見えた。警戒はしているが逃げる気配はない。毛が濡れて張り付いているために露わになった体形は、驚くほど痩せていた。知床の冬を乗り切った野生のキツネに、たくましさより哀れさを見てしまい胸が詰まった。
 体型とは別に眼付きが鋭い。鋭さも精悍というより、人間に例えれば「眉間にしわを寄せ睨んだ表情」とでも言ったらよいか。しばらく見合っていたが、何も出ない事が分かったのか振り返りながら藪の中に消えていった。
 厳冬季の姿をした羅臼岳の山頂に雪煙が仰げ、方向を百八十度変えると知床峠に着いた。

 北海道はどこを巡っても、地名は勿論山も湖もアイヌの言葉が付いていて、彼らと北の大地の強い絆を常に意識させられる。しかし近代になって開通した車のための峠は、狩勝峠・釧北峠・美幌峠等その両側の地名や町の名を採ったものが多く、歴史や生活の匂いは何も感じさせない。その一つ、国道274号には、日高と十勝、即ち日勝(にっしょう)峠がある。

 残雪の残る日勝峠を下りPエリアで一息入れていると、ガードレールの外側からキタキツネが近づいてきた。周囲を警戒しながらも徐々に寄ってくる。交通量は多いが駐車帯が広いこの場所には馴れているらしい。しかし、聞き馴れない音には敏感に反応し、すばやく辺りを見回す。知床のキツネとは違い、眼つきはやや柔和だ。
 野生動物に餌を与えるべきではないと分かっているが、ついうれしくて、取り出したパンを(用心のために)指先から長く突き出して向けると、ごく自然にくわえた。しかし、直近で鋭い黄色の牙を見て、手放すタイミングが早くなってしまった。

エゾシカ

 曇り空にもかかわらず視程はかなりある。晴れていても空と山の色の境がハッキリしないこの花曇りの季節に、彼方に一段と高く飛び出た黄褐色の山頂がハッキリ見えるのが何か不思議だ。
 その特徴ある山容からおそらく名の知れた山なのだろうが、車を止めてまで調べる気にはならなかった。信号が無いため、長時間続いている安定した車の流れを乱すのが何か罪のように思えたからだ。

 山に雲がなく視界が良好とくれば「摩周湖にも霧が無い」と思いつき、取りあえず根室に向かっていたのを国道272号に乗り替えて南へ向きを変えた。
 目標が確定し、徐々に近づけば、頭の中も「摩周湖」で一杯になる。ここは一つ「霧の摩周湖」を口ずさみたい、と思う前にもう自然に「きりーにー…」と声を出してしまった。

 ここでは鹿が主人公なので摩周湖の印象記は別の機会に譲るが、この湖には「凄さ」があった。「摩周湖の夜」などと歌詞にあるが、夜には、ロマンどころかネッシーならぬマッシーが湖面から首を出すのではと畏怖を感じさせる神秘さがあるとだけ伝えておこう。

 ゴールデンウィークも終わり、今日は公(おおやけ)には平日とあって、山岳道路である摩周湖からの阿寒横断道路・国道241号は極端に交通量が少ない(と言っても、初めて通る道に多いの少ないのと比較できないが)
 対向車が視野から去ると、注視する対象物を失った目は、代わって左前方の黒い物体を捕らえた。近づくと鹿で、通過車両をものともせず谷川の法面に生えた草を食んでいる。道路際からおよそ3mで、野生の動物としては「ニアミス」の領域に入ると思う。
 「さすがは北海道、動物達もどっしりとして車の騒音や排気ガスにはビクともしない」ととるか、「生きていくには人間社会に順応せざるを得ない」ととるか、はたまた単に喰いしん坊なだけなのか。いずれにしても、観光客には単純にうれしい光景だ。

 黄昏(たそがれ)は全国津々浦々どこでも平等に黄昏だが、やはり「北の黄昏」と書きたい。その北の黄昏が先回りして、道路や林間の根方にさりげなく置いた今日の終わりを無視するが、それが「忘れ物」と追いかけて来るようで、山道にもかかわらずアクセルに力が入ってしまう。心の中にも北の暮色が入り込んできた頃に、阿寒湖畔の灯が目に入った。

 阿寒湖から「まりも国道」と呼ばれる国道240号は幅員も広くカーブの半径も大きい。そのため、林間の急勾配にも関わらず、釧路に向かってグングンと高度を下げることができる。
 9時近いとあって対向車は全く無い。メーターは70キロ以上をキープしているのだが、2台の車に追い越された。3台目はバックミラーに写る二つの光源がたちまち大きくなり、右側から目の前を駆け抜けて行く。かなりのスピードだ。
 ところが、ストップランプが赤く輝き心無しか軌跡も乱れている。事故かと思ったが、遠目にもヘッドライトの先に5、6頭の動物が右往左往しているのが見えた。近づく頃には道路から退散していたが、薮の中に一瞬見えたものは鹿であった。春に浮かれてちょっと国道で散歩とは考えにくいから、獣達の横断歩道だったのかも知れない。マリモを見ることはできなかったが、これが、パッケージされた旅行では味わえない夜の北海道だ。

「霧笛が俺を呼んでいる」

 車中泊者には、門限も食事の時間も制約がない。当然今夜の予定も未定で、どこまで行けるのかは気分と体力次第だ。時間の使い方もおおらかというかルーズで、目的地までの所要時間を調べる気にもならない。

 雨とガスで視界が利かず、車の進行と同時移動する狭い世界に飛び込んでくる道路標識の、地名と距離の数字の変化だけが区切りをつけてくれるだけの国道を坦々と走る。それでもスモールを点けると、何とか明るいうちに、と幾らか焦りを感じ始めた。
 夕闇が徐々に領域を増し、灰白色のガスの粒子を通して白く舞い上がる波が見えなくなった。その分、津波のような波が押し寄せているのではないかとの想像力が荒れた海の不気味さを増幅させ、一層不安が広がる。フロントガラスの前の、常に一定に確保される狭い空間に現れる国道もエンドレスのゲーム機のようで、先が読めない。

 後に、広尾町から日高山脈が海に突き出る襟裳岬への国道336号がその建設費の余りの巨額さに、金を敷き詰めた「黄金道路」と知った。その山側は圧迫感のある岩板が連なり、海からは近くに遠くにと車に迫る波が果てしなく続く。覆道(洞門)とテトラポット、更にトンネルと防波堤に保護された道は「異常気象時通行止」のゲートが何箇所もあり、対向車の少ない事もあって心細かった。

 襟裳岬への距離表示の代わりに、分岐を示した道路標識が現れた。時間の経過や現在位置の感覚が麻痺した頭にはそれが他人事のように思え、危うく通り過ぎるところだった。
 遠くに点在した光が外灯や人家の明かりとなって現れた。しかし、メーターの鋭角な蛍光表示だけが浮かび上がる車内から濡れたガラスを通して見る集落の灯は、霧のためかボーっと拡散する光に虹がかかって見え、その存在感は希薄で頼りない。それも再び疎らになりやがて消え去った。
 上りの傾斜がきつくなるにつれて密度を増したガスにやむなく徐行し、センターラインを忠実にトレースする。記憶している地図から「右は山側」と思うだけで、何も見えなくても安心感がある。
 しかし、左方の海の存在は、海岸線までの距離・高度に関係なく不安を呼び、路肩の左側の霧で充満した闇が何も存在しない無の空間の様で心許無く、体の左半分が落ち着かない。「襟裳岬」の標識がいきなり現れ、慌ててナトリウムのオレンジ光に照らされた右折レーンに入った。

 駐車場に降り立つ。風が強い。その分霧が流されるのか視界は予想以上にいい。髪を押さえて広い駐車場を見回すと、遠くに光が点滅し霧笛が鳴っている。この生の音を聞くのは初めてだったが、釧路博物館でスピーカーからの展示音を経験していたので違和感はなかった。
 まずトイレに入り心身を落ち着かせた。岬の説明板を読み、その横の暗さを増した道に見当をつけて岬へ進む。一人だけ半袖姿の男性が目立つ若い男女のグループの賑やかさと行き違うと、左右の広場には人影がなかった。岬の雰囲気がより強い右側の展望台へ下りた。

 突然背後から「ヴォー」と巨大な音と振動に襲われた。一瞬身体の細胞が分離したのではないかと思った。まさか霧笛の音源がここに在るとは思ってもいなかったから肝を冷やした。
 耳をふさぎながら振り返ると、10メートル位のタワーと向かい合った。縦に並ぶ七つのスピーカー状の穴から放たれる音のエネルギーに対峙すると全身が震え、確かに細胞の一つ一つ、骨までが振動しているのが分かる。
 「生まれも育ちも山国信州」では、「霧笛が俺を呼んでいる(※赤城圭一郎主演の映画)」と言葉では知っていても、実際に間近で聞く音は実用そのもので旅情あふれる響きは全くなかった。
 一段上の高台にある燈台はまるで生き物のようで、巨大な前後の目を輝かせる怪物だ。絵葉書のよき前景となる白亜の塔も、この気象状況では圧倒的に存在感がある。しかし、その睨みも果たして何キロ先まで届いているのだろう。光達42キロとあるが、目に見える乱反射した光の帯は虚しく20メートル位で霧に吸収されている。

 「朝から雨」への恨みが時間の経過と共に消え去り、雨の北海道を自然体で受け止められるようになった中で、「襟裳岬」の標柱だけでも拝めればとここまで来た。それだけに、展望台とは名ばかりだが、「見下し台」の役目だけはかろうじて果たしている状況に不満はなかった。
 その突端から、海面へ60メートルという崖下をのぞき込む。霧と暗さで遠近感は余り無いが、全ての波がこの岬に押し寄せるように逆巻き泡立っている。島倉千代子の唄『襟裳岬』では「風はヒューヒュー、波はザンブリコ」と唄われているが、今日の気象状況では「ゴー、ゴー」とうなる音に、足元が削られ今にも崩れ落ちていきそうなほどだ。
 ガスのフィルターで視界全部にあるはずの怒濤は隠されているが、節穴から覗いているような狭い視界の中では不気味さが増長し、白と黒の波と岬の攻防はこの世のものとは思えない。

 置き忘れられた様な数台の車が残る駐車場に戻ると、すでに売店は閉まっていた。「えりもの春」は、駐車場出入口だけにある外灯に白く光る霧のほかは黒い霧に包まれ、間断無く吹く風が身体に当たって発する音に観光地の「襟裳岬」は全く無かった。霧笛が響いた。振り返ると燈台の光の帯だけが無心に回っていた。

サロベツ原野

 函館は桜の盛りだったが前線はそこまでで、北に向かうに連れ冬景色に戻って行く。サロベツ原野は枯れ色の単色の世界が続く。休憩を兼ねて車から降り、海側に踏み入れた。湿った枯れ草の中に小さな紫の花が点在しているのを見つけたが、名前は分からない。ウルップ草だろうか。

 サロベツ原生花園を訪れた。さえぎるもののない原生「枯園」に吹く風に一人抵抗し、遊歩道から湿原をのぞき込んだ。ヒメシャクナゲやツルコケモモなどのつぼみはまだ固い。遊歩道を一回りしてから駐車場に戻った。隣接のレストハウスには、準備中なのか忙しそうに立ち振る舞う一人の女性がガラス越しに見える。
 ログハウスのビジターセンターに立ち寄った。人恋しくて話しかけたい気分だが、9時の開館直後で準備に忙しそうな管理人に遠慮した。パネル写真を見、二階から湿原を眺めてから静かに退散した。ゴールデンウィークとはいえ、北海道では5月はまだ観光シーズンではないようだ。
 納沙布岬まで延々と続く海沿いの直線道路「日本海オロロンライン」は、逃げ水が蜃気楼のように見え、左には雪を冠った部分だけが海の上に浮かぶ利尻島がいつまでもついてきた。

水芭蕉

 知床のオホーツク海側、宇土呂の町外れのPエリアで目をさます。山際の斜面は雪解け直後なのか、すべてが雨後のように濡れている。水芭蕉が、ゴミのような黒い枯れ枝の間から大きく葉を延ばし白い花をつけている。尾瀬では大いにもてはやされ歌にもなった人気の花だが、北海道では実に地味な存在で、大型のフキノトウと共にどこにでも見られた。
 それを如実に感じたのは、サロマ湖近くの牧場だった。糞にまみれた黒いドロンコの土に顔を出したそれは遠目にも白の鮮やかさが認められ、即ミズバショウとわかる。「掃き溜めに鶴」と形容したいところだが、むしろ、可憐さよりたくましさが感じられる。踏みつぶされずに残っているのは、牛が意識的に避けているのだろうか。いずれにしても、本州の仲間に比べればその待遇の差は天と地である。

ああ! 満開の桜 静内町

 襟裳岬から夜の国道をひたすら走る。静内町に入ると「桜祭」の看板と案内板が数多くみられ、一日雨にたたられた心も大いに弾んだ。函館の満開の桜を見てから5日目。計算ではわるくても三分咲き、良ければ満開のと期待して後半にこのコースを組み込んだのだが…。

 「桜並木が7キロも続く」とあるこの直線道路は、霧による視界不良を割り引いても、ヘッドライトに浮かぶはずの両わきの梢には白さが全く見られない。通称「二十間道路桜並木」は、「36m幅の道路の両側に一万本のエゾヤマザクラが植えられていて日本最大の名前がつく」とあるから不思議だった。すでに10時近いから、数多い屋台や小屋が固く閉められているのは当然だが、花見につきもののゴミはほとんど見られず、飾り付けられた広場や臨時の駐車場も使われた形跡が無い。祭りは10日までとあるがどうも様子がおかしい。

 見通しが利かないため、車を適当な道路脇の草地に突っ込んで今宵一夜のねぐらと決めた。しかし、目ではわからなかったぬかるみで、どこからともなく漂ってくる馬糞の匂いにも閉口して早々に退散した。ようやく10台は止められる舗装された駐車場が見つかり、この一画を宿泊場所と決めて遅い晩飯を作った。
 道路からやや奥まった所に、三角屋根の白い瀟洒な建物がライトアップされている。ペンションのようだ。今の時間では、白い(と決めつけている)ベッドでお休みか、とちょっぴり妬ましさが…。片や自炊する「走るヤドカリ」は、釧路湿原と市立博物館を見学してからは襟裳岬での下車と入浴以外走り詰めだったが、それでも憧れの北海道にいるんだと意気は高い。

 翌朝、目が覚めると寝たままでガラスを透かした上を仰いだ。しかし、ピンクの花びらは何処にもなかった。風雨で数多く落ちているつぼみを観察すると、赤みの強い花弁が幾らか姿を現した程度だった。これでは、祭りの終わった頃がようやく「咲き始め」という状況だ。こちらもがっかりしたが、祭りの主催者やそれを当て込んだ業者はそれ以上にがっくりしているだろう。
 驚いた。何と、昨夜の芝生に囲まれたしゃれた建物から顔をのぞかせているのは、白いドレスの女の子ではなく白い顔の馬だった。ペンションではなく厩舎だったのだ。ウーン、よっぽど稼ぎ(血統または種)がいいのだろう。

 昨日とは打って変わった快晴の苫小牧への国道は「サラブレッドロード」の名の通り、競争馬の牧場銀座だった。北海道は国道に愛称がついたものが多い。(ナウマン象の化石が発掘された)ナウマン国道やマリモ国道はわかるが、「パイロット国道」には頭をひねった。自衛隊の飛行場があるからとも思ったが、後で調べると、名前の由来は「パイロットファーム(農場)」だった。更に調べると、「世界銀行の融資を受けて昭和31年から実施された、短期にモデル的な酪農経営を確立した開拓方式」とあった。…なるほど。

「はあきゆり」

 初めてこの名を目にしたのは新聞の広告だった。東日本フェリーが同じ欄に繰り返し掲載していたからだ。詳細を読むと、所用時間・運賃共に有利な日本海ルートでは同じ船会社の「へるめす」がある。しかし、同じ乗るなら新造船の「はあきゆり」だろう。そのフェリーを使うかどうかは別として、「はあきゆり」など見たことも聞いたこともない。花弁に隙間があるスカシユリから、北海道特産のユリで「葉先が割れているか穴があいている」と想像し、それが固定観念となっていた。

 北海道最後の夜の岩内港。乗船待ちの暇潰しに、ライトアップされたフェリーを眺めた。始めは珍しかった船体も、間近で仰ぐ位置からは興味を持続するには余りにも大きく平板すぎてすぐ飽きた。しかし、「はあきゆり」専用の港では他に船は無く、ビルのように動かぬ船を移動しながら見ることで興味をつないだ。
 突然閃いた。と言っても、何かが爆発した訳ではない。名前だ。「葉孔(はあき)百合」ではなく「ハーキュリー」だった。今思えば、兄弟船である兄の名「へるめす(ヘルメス)」から、ギリシャ神話の神の名前を採った事に気がついていなければならなかったのだ。しかし、「はーきゅりー」ではなく「はあきゆり」だったので、ユリの一種と思い込んだのも無理はなかった。それに、船は「女性名詞」という先入観もあった。

 命名者は社長か社員か又は一般公募か分からぬが、この漫画ティックな名前には賛否を巡って一騒動あったような気がする。しかし、不思議だ。何度も目に映った「はあきゆり」の大きな文字だが、特に船名を考えていた訳ではない。このまま永久に間違った名前を記憶されてしまってはかなわないと、船の方から教えてくれたような気がしてならない。
 岩内も「いわうち」と読んでいたが、これは北海道上陸後、各種の情報から「いわない」と読むことは分かっていた。

アイヌ

 旅行中、アイヌに対する知識がまったく無いことを思い知らされた。考古学を含む歴史を始め、民俗・習慣など、見るもの聞くもの全てが目新しかった。特に、各地の資料館の「ビデオ映像による文化の紹介」は大いに参考になった。ただし、時間の制約からその一部しか見られなかった。
 少しでも知識を得たいと思い、平取(びらとり)町のアイヌ文化研究者萱野茂氏(当時・国会議員)の資料館兼収蔵庫で求めた『アイヌの碑』を帰りのフェリーで読んだ。

 その後『アイヌ考古学』『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』『アイヌ、神々と生きる人々』と購入したが、如何せん、記憶力が衰えたせいか関連付けができず、せっかくアイヌの人々に繋がった糸も切れてしまった。

平成2年5月