平成7年に放映されたNHK『みすゞの世界』で、ファンタスティックな映像をバックに紹介された金子みすゞの詩のユニークさを知った。信濃の枕詞「みすゞかる」をペンネームにしたみすゞを控えめに演じた小林綾子(あの「おしん」です)の好印象と、26歳で自殺したという結末に強くひかれ、生まれ故郷の仙崎へ行こうと思い立った。
日が変わる前の11時過ぎに、ようやく仙崎駅前のロータリーにたどり着いた。しかし、防犯上と思われる駅舎内の明るい照明に対して、その周辺に人気が全くないことに違和感を覚えた。仙崎の唯一の中心と思われる駅前が全て活動を停止している中で、時折、背後に感じる車の走行音とともにそれが発する灯りだけが動いた。
テレビで得た知識だけでここまで来たので、情報収集と明かりの中に入った。左手に「みすゞ館」と看板がある。みすゞにあやかった飲食店らしいが、民芸調の扉は壁面と一体化していた。
正面右手は、シャッターが下りた売店とチェーンと鍵で守られたアイスクリームのケース。全てにバリアーが張られている中でなぜか改札口はフリーだった。目的がないままホームに立ってみたが、線路の上は暗く寂しくすぐに引き返した。
灯りを背にすると、駅前から遠近法で闇の中に消滅する商店街が延び、どこからか、男の間延びしたカラオケの歌が漂ってきた。
朝一番に「みすゞ館」へ寄った。昨夜食堂と思ったのは、無料の「(観光兼)金子みすゞ案内所」だった。パネルやビデオによる紹介があり、みすゞ巡りの予備知識を得るには格好の場所だった。
現実の世界を求めて「みすゞ通り」に向かったが、青海島(おおみじま)というメジャー観光地があるこの駅舎内に集う人々には、同じ目的を持つ者はいなかった。
石造りの案内柱や金属プレートの案内板に、地元の金子みすゞにかける意気込みが感じられた。通りに沿って、みすゞ縁の「金子文英堂跡」や詩に登場する「角の乾物屋」などを坦々とこなし、遍照寺(へんしょうじ)の山門をくぐった。
菊花が供えてある墓前に立ち、この石の下に彼女が眠っていることを想ったが、意外にも湿った感情は湧かず、サバサバとして手を合わせた。
青空と暖かい朝を迎えた、後一週間で12月を迎える仙崎は休日とあって、行き会う地元の人々は伸びやかに見えた。その中で一人残りの道を急ぐとすぐに海に突き当たり、みすゞへの旅が終わったことを知った。
仙崎を離れ、一旦は通り過ぎ、しばらく考えてから引き返した長門のショッピングセンター「ウェーブ」。みすゞ館でもらった『金子みすゞマップ』にはここの5階とある記念館だが、2階から上に向かう階段やエスカレーターが見あたらない。
ミスプリントかと思い一階の案内所に向かった。教えられたカウンター右手のエレベーター入口に「記念館」の表示があった。航空母艦のブリッジが甲板の端にあるように、記念館のある管理棟だけが突き出ていることがわかった。
小さな記念館だったが、職員と思われる私服の若い女性が自発的に案内説明を引き受けてくれ、大いに気分を良くした。
最近発見された詩集や縁の品々があったが、その中で目が釘付けになったのが一枚の着物だ。命を絶つ前日に写真館で撮ったという写真は金子みすゞに関する本には必ず載っているが、その時に肌を通した、万葉の昔風に言えば「魂が宿った」着物が展示品として置かれている…。
見詰めすぎて狭くなった視野の中心に存在する古びた織物に、仙崎では遠い世界のように思えたみすゞだったが、異常なほど引き込まれた。熱心に解説を続ける同年代と思われる彼女を疎ましく思うほどだった。
文庫本が開かれ、西条八十が下関で彼女に会った章を紹介している。その中で彼が黒耀石と例えた彼女の瞳にあやかり、その石が展示してあった。しかし、壱岐島産の石は、長野県八ヶ岳産の見慣れた黒耀石と違いガラス質の透明感がない。しかし、かえってその不透明さが深く沈んだ瞳の悲しさを現していた。
このセピア色にも似た昭和5年に亡くなった彼女が残したすべてを見た後では、階下の買い物客とあふれる車の世界に戻るのがためらわれた。
平成7年11月
平成23年に起きた東日本大震災の直後から、金子みすゞの『こだまでしょうか』がテレビから流れ始めた。それが発端というわけではないが、各局で何回か「金子みすゞ」の特集が組まれた。
令和となった今、仙崎も当時とは様子が変わっていると思うが、ここに『金子みすゞの故郷仙崎』として紹介することにした。