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長保寺「蝉に降参」 和歌山県海草郡下津町

長保寺(ちょうほうじ)

 車のドアを開けると、朝から、早くもなだれ込むセミのわめき声。

 昨夜のこと。時は深夜、所は寺の駐車場とくれば、いささか落ち着かない。
 30度から一向に下がりそうもない熱帯夜に加え、自宅に居れば考えられない蚊の襲撃に悩まされた。たまらずエンジンをかけ、エアコンの釦を押したのが午前3時過ぎだった。

 睡眠不足の影響がモロに残る頭で四方を眺める。陽の下では初めて見るここ長保寺は谷の最上部に当たるが、家々は更に山の斜面に広がっている。この谷を下りきった所が、紀伊國屋文左衛門が江戸へミカンを積み込んだ下津港だ。

 曇天で太陽からの直射は免れているが、その分、昨日から持ち越した熱気が未だに「一日の始まり」を万遍なく包み込んでいるようで、却って暑さを感じる。
 風が全く無い。近づいた門前の木々は、梢も葉も動きがないから、セミが飛び回るのがよく見える。その左右の桜の木から滝のように浴びせられる、音の波動が感じられる程の蝉の鳴き声は、いやが上にも、夏に「真」の字をくっつけ大いに盛りたてる。

 長保寺では幾つかある国宝の一つ大門が額縁となった絵は、やや左にずれた並木の枝が左右から覆い、最奥は石垣が見えるだけで、遠近感がない。
 体の輪郭に墨の線が残る仁王を眺めながら古色が乗った瓦葺きの門をくぐり抜けると、背後の鳴き声が遠くなった。しかし、楓と桜の並木が近づくと共に再び音の洪水が押し寄せ、今は蝉が木の数だけ増え一段とうるさい。
 脳が共鳴している。一目30匹で、一本の木ではどれほどいるのか想像もつかない。小型ながらも圧倒的な数に優る彼らは、近づいても逃げる気配すら見せない。

 奥へ歩を進める毎に、正面の石段が上に延びるのが見える。汗をかかないようにゆっくり登る。空が近くになるに連れ、最上部から長保寺本堂の屋根が見え始めた。
 国宝指定の本堂は、背後に濃い緑色が固定した山を従え、翼の様に広げた瓦屋根の曲線が美しい。下部だけ漆喰に塗られた四角の壁に、扉と左右の櫺子窓(れんじまど)の濃い褐色がアクセントになっている。
 賽銭箱の前に垂れた綱がわずかにゆれ始めると、いくらかの風が体に感じた。

 こじんまりした境内の左手に、鐘楼、阿弥堂、花頭窓の護摩堂が続く。右手にある、これも国宝の多宝塔は、上層の円形の木組が複雑だ。色は、亀腹に一部剥がれた漆喰の白があるのみで、多宝塔の見慣れた彩色は無い。

 境内の隅に立って、乾いた赤土の上に展開する長保寺の伽藍を眺めた。計算しつくされた配置に、影のない建造物の一つ一つにそれぞれ人間が付けたランクや大小に関係なく、確固とした存在感がある。しかし、「存在」という言葉も人間から見ての事で、見る者のいない時は、単に「有る」に変わるのだろうか。相変わらず、蝉の悔い無く生きる証はこの山寺を覆い、鼓膜を刺し続けている。

 庫裏に引き返して声を掛けると、雨戸で閉まっていた玄関脇の拝観受付窓が開いた。住職の母堂らしいお婆さんから受け取った資料は、長保寺保存会入会案内・献灯明のご案内・振替用紙二枚・絵地図・それに「CHOHO-JI」の文字もしゃれているメインのリーフレット。
 余りの厚さに戸惑いながら、蝉の声がうるさいとも言えず「大きいですね」と話しかけると、「今年はまだ少ない方だ」と返されてしまった。

 修理中なのか青いビニールシートを被った御廟門をくぐると、一転して薄暗い、空気も澱んだ異次元の世界に飛び込んだ。広さ3.4ヘクタールと言う歴代徳川家の廟所だ。
 薮と石畳の上に、枯れ落ちた小枝や茶色の落ち葉が積もっている。一気に秋が来たような異様な景観は、蝉の鳴き声と暑さから「まだ夏なんだ」と、念を押さずにいられない程だ。手入れは全くされていず、天然記念物の「長保寺の林叢」(シイ・ホルト・ヤマモモ・アラカシ・マツバラン・ハナヤスリ・ヒメササ)の説明も何か虚しい。

 山の斜面のあちこちに放射状に石段が延びている。杉や広葉樹の枯れ葉を踏み、一番近い右手の石段を上ってみた。同じ七代夫人の墓が参道を挟んで向き合っている。「再婚、一条家、39才」となると、反対側の伏見宮は先妻という事になるが年が書いてない。
 更に上にある十二代夫人の墓は「近衛家、32才」とあり、五摂家(摂政・関白になれる家格。近衛、九条、二条、一条、鷹司家)出身の奥方に、さすが紀州徳川家だと思わせるが、何れも年若い事から、武家へ嫁いだ気苦労の多かった事も想像される。

 やや広い石段を登り詰めると、家康の十子・初代の頼宣公の二重の石塀に囲まれた墓所の前に立った。墓石は大きなナス型だ。資料で「五代藩主吉宗候は将軍になったために墓碑がない」と確認すると、紀州徳川家の御廟所に対する興味が急速に薄れた。
 他の墓所は遠くから眺めるのみで、明るさを求めて道なりに進むと、多宝塔下の色あせた紫陽花の生け垣の間に降り立った。
 境内を後に石段を下りると、活動時間になったのか、蝉が時折体に当たった。

 車に戻って資料をチェックすると、振替用紙から、檀家のないこの寺は文化財の維持に大変らしく、「長保寺保存会」への協力、一口十万円の献灯明の案内、宗旨宗派は問わないという霊園経営から、廟所の荒れている原因が判ってきた。徳川家は現在東京在住で、菩提寺とはいえ、とてもこちらまで手(金)がまわらないらしい。

 同敷地内にある町立歴史民俗資料館は月曜という事で休みだ。同じ下津町にある国宝・善福院釈迦堂を見学してから粉川寺に向かった。

平成4年8月