平成23年3月以降、報道で「双葉町」を耳や目にする度に、双葉小学校の山手にあった「清戸迫横穴」を思い出してしまいます。改めて調べると、福島第一原子力発電所の運転開始は昭和54年でした。当時は、ここに原発があるとは思ってもいませんでした。
頭上の大きな標識「史跡・清戸迫横穴」の矢印にしたがって右折してみたが、その先が分からない。地元の人に尋ねるのが手っ取早いが、ガイドブックや史跡の説明文などをヒントに自分の力で捜し当てるのも楽しい。小学校の移転中に見つかったとあるから、まず「学校はどこだ」と視線を巡らした。
双葉南小学校への坂道を登りながら、「横穴の委託管理が学校だとすれば、今は夏休みだが、当直の先生から鍵を借りることができるかもしれない」と期待した。現在は、ほとんどの装飾古墳が密閉されており自由に石室内へ入ることはできない。頑丈なドアに守られ「見学者は教育委員会まで連絡のこと」のカタい文字にはねつけられる。保存上仕方がないのだが、「一見さん」の壁は厚く、しかも休日とくれば諦めるよりほかはない。
手入れの行き届いている花壇を見てから山側に目を移すと、斜面にそれらしきものが見える。近づくと、先客がいるのかタイミングよくドアが開いている。コンクリートと鉄の入り口から現在と過去の接点である羨道(せんどう)を通ると、そこには死者の闇の世界があるはずだった。
しかし、玄室は明かりで満ちていた。これも予想外だった壁画の前にあるガラスだが、その存在が唯一黄泉と現世を境しているように思えた。ところが、その「黄泉(よみ)」に誰かがどっかり座り絵を書いている。模写だ。左側の若者は助手らしい。この、暑く風も入らない狭い穴の中で、白熱灯をつけ一心に写している。蛍光灯では正確な色が分かりにくいのだろう。
アーチ型の天井を持つ玄室は、縦長の鱗状に凹凸が残る削りっぱなしの壁面だった。絵はその奥壁中央に赤一色で描かれている。日輪を表現したといわれる渦巻き状の大きな輪が印象的だが、その周りに幾つかある絵がハッキリしない。壁面の茶色の削痕に加え、退色しているため色の境が判別できないのだ。
よく見ると、右側にヘアスタイルが「ミズラ」とわかる人物像が浮かび上ってくる。この墓の主だろうか。彼は、永久に密閉されていたはずの自分だけの世界に、千四百年を経た今、文化財として発掘や模写をしたり遠くから訪れ見学している生身の人間達の出現に、初めは驚き怒ったに違いない。しかし、見られたくない己の姿が消滅して自由になった今では、主人としての立場は無視されているが、「どうだ、りっぱな墓だろう」と自慢しているかもしれない。
左側へ視線を移し画家の後ろ姿を見つめていると、閉ざされた穴の中の湿った熱気が頭を締め付け始め、当時の絵師が描いているのをのぞき見している様な錯覚をおぼえた。
▼平成6年に、福岡市立博物館の特別展「装飾古墳の世界」を参観した。その時の案内資料で、横穴で模写をしていた人物が、双葉町在住の日本画家日下八光画伯と知った。
いわき市の「白水阿弥陀堂」は、お祭りなのか幟が何本も立てられていた。「本日拝観無料」に、こいつは朝から縁起がいいと喜んだが、磐城高校保管の重文「天冠埴輪」は、夏休みで責任者がいないからと断られてしまった。
同市内の「中田横穴」にもまいった。道路沿いにあるはずなのに何回往復しても見つからないのである。史跡の印が道の反対側にあるというガイドブックのミスプリントに気がついてようやくその前に立ったが、道路から一段高い入り口には大きな鍵がぶら下り突然の来訪者を拒んでいた。予想はしていたが、二件連続の拒否に会(遭)うとさすがに不満が積もり始めた。
こんなことなら「常磐ハワイアンセンター」のフラダンスショーをしっかり見ておけばよかったと後悔した。昨夜、高い料金を払って入浴と洗濯とを兼ねて入場したが、プールで泳ぎを楽しんだだけで、団体や子どもの走り回る騒がしい館内に馴染めず早々に引き上げたからだ。
昭和60年8月