【メンヒル】 フランス・ブルターニュ地方の土語。墳墓の前に立っている自然石や柱状の石をさす。
国道55号は徳島から室戸岬を経て高知市に入ると56号になり、四国の南西部をぐるりと回り、愛媛の宇和島から松山へ向かう中程で大洲(おおず)盆地に入る。
国道を離れ、標高561mの高山寺山越えの道を進む。さらに途中から狭い道に入り、急な九十九折を登って行くと少し広くなった所がある。高山の集落だ。そこの道路沿いの農家の木戸に、「にょっきり生えた」という表現がぴったりの巨大な石柱があった。
ガイドブックの説明では「高山寺山の中腹にある」としか記されていないから、連続するヘアピンカーブにうんざりしていた時に突然異様な物体が目に飛び込むのだから、慌ててしまった。
これが「高山のメンヒル」または「高山の石仏」と呼ばれるもので、鳥居龍蔵博士の調査によると「メンヒルとしては東洋一で、高さ4.75m・幅2.3m・厚さ1.3m」とある。
少し離れて眺めると、緑色片岩という無加工の自然石は、自然の造形としては何か違和感がある。周囲の景観からは浮いて見えるのだ。やはり、人間が建(立)てたことに間違はないだろう。
彼(彼女ではないですね、やはり…)は、余りにも遠い昔のことに記憶も薄れ、「なんで俺はこんな所に突っ立っているんだ」と悩み続けているかもしれないが、見物人(自分)も、「なんのために、なぜこんな所に」と悩んでしまう。
古代の原風景を想像しながらしばしこの地に留まりたかったが、あれもこれもと欲張る持ち時間が限定された旅人には、それは許されない。ガイドブックに、「肱川を挟んだ対岸の大洲富士と呼ばれる富士山の頂上付近にドルメンがある」と書いてあるからだ。
しかし、期待したそれは大部分が土に埋もれ、ただの大石の「表面」だった。「ドルメン」という、古代の石造物好きには血湧き肉躍る言葉の響きは何処にもなかった。
説明板も朽ちていて判読できなかったが、通りがかりの年配者が面白い話をしてくれた。「高山のメンヒルと、ここのドルメンの延長線上に不思議な石造物があると古老から聞いたが、今は所在不明だ」と言うのである。もう、半分インディ・ジョーンズになりかかった。
実は、現在に到るまで「高山の石仏」で通してきたが、ネットで確認すると「高山のメンヒル」の方が一般的だった。大洲市教育委員会が設置した案内石碑が新設されていたので、『大洲市指定史跡 高山ニシノミヤ巨石遺跡』として転載してみた。
先史時代の人々の手でこの地に残したとされる巨石の中で代表的な立石である。
古来前面を仏とし背面を神(権現様)として崇拝され、特に目疣(めいぼ)のある者が祈願すれば霊顕を得るとして参詣する風習があり、その前面には積石の祭壇を設け、今なお香華を供えている。
昔藩令によって久米喜幸橋の石材に用いようと運び出し、翌日橋をかけようとしたところ、この巨石が夜のうちに元の位置に座っていたという民話もある。
昭和三年十一月故鳥居龍蔵博士の来洲によって、メンヒルとしては東洋一のものだろうと推称されて以来にわかに有名になった立石である。
以下は、空きスペースを埋めるために書いたものだ。当時の情報はガイドブックに頼るしかない時代とあって、今読むと「んー」と言えるが、そのままを載せてみた。
全国には、不思議なというか謎の石造物が各地にある。「謎」というだけあって歴史的に古いものが多いが、思いつくままに挙げてみると、文字が刻まれているものとしては、つぼの碑(青森県東北町)。大型の石造物では、石の宝殿(兵庫県高砂市)・益田岩船(奈良県橿原市)。規模は小さいが、岡益の石堂(鳥取県岩美郡国府町)。石を積み上げたものとして、熊山の石積み(岡山県赤磐郡熊山町)などがある。
【つぼの碑】 日本中央(ひのもとちゅうおう)と刻まれている。坂上田村麿によって地中深く埋められたといわれ歌にも詠まれた。明治天皇が東北巡幸のおり、是非見たいとの希望で青森県内を必死に探したが見つからなかった。昭和23年偶然発見された。
【石の宝殿】 中学の頃、「駅名にもなっている旧国鉄・山陽本線宝殿駅で、“ホーデン、ホーデン”とのアナウンスに乗り合わせたドイツ人が大笑いした」という小咄をいまだに覚えている。石切り場の上にある500トンと言われる、横倒しにした家型のような生石神社の御神体には圧倒される。なぜ建造途中で放棄されたのか、一体何を造ろうとしたのか、謎・謎・謎である。
【益田岩船】 飛鳥へ行かれた方は見られたと思うが、山の斜面にある巨大な石の上部に開けられた方形の二つの穴には?の連続だ。これも諸説あるがどれも説得力に乏しい。明日香村の岡には、小型だが酒船石もある。
【熊山の石積み】 熊山の頂上に幾つかある。史跡に指定されている一番大型のものを見たが、一見アステカの小型のピラミッド状で、付近の割石を方形三段に積んである。仏教遺跡とも云われる。
ようやく林道入り口にたどり着き、集落の外れにあった墓地の前を通り舗装されてはいるが木の枝が垂れ下がる狭い道を上り始めたが、深夜とあってさすがに気味が悪くなり引き返した。翌朝改めて現場へ行ったのも今では懐かしい思い出となった。
【岡益の石堂】 山陰最古の石造物といわれ、再三の地震で崩壊がひどく当初のおもかげは一重の基壇や心柱にとどめるだけ(『鳥取の歴史散歩』)とある。周囲は、瓦が散在し、お土産に丁度よい(一応法律に触れる)。
この中で、「石の宝殿」はスケールが大きいだけに、『原人未選定・日本の謎百選』の内〔石造物部門〕のナンバー1だ。兵庫(高砂市)へ行かれたら、是非ここへも立ち寄られたい。
縄文の環状列石・集石遺構から弥生・古墳・奈良時代にいたるまでの石造物は、当初の目的が忘れられ、今となってはすっかり謎となってしまった。それだけに自由な想像ができ興味もわく。メジャーな観光地もいいのだが、こうしたミステリーに包まれた土地を尋ねるのも楽しい。
しかし、そのまま行方不明になる可能性もあるので、身辺整理をしてから出かけること。
平成元年5月