「国宝への旅」の一環として、かねてから出雲大社を狙っていた。 それをあおるかのように、小泉八雲著『日本の面影』がNHKでドラマ化された。映画「ウェストサイド物語」ではマリアの兄を演じたジョージ・チャキリスがラフカディオ・ハーン役で出演し、そのあまりの熱演に、小泉八雲が暮らした松江の街を見たい、神々の集う出雲の地を訪れたいとの思いが一層かき立てられた。
5月が近づき、機は熟したと、ゴールデンウィークを利用した「八雲立つ出雲への旅」の計画を立てた。
まずは、手持ちの資料とガイドブックから主なポイントをピックアップした。鳥取では、浜坂で新田次郎著『孤高の人』のモデル加藤文太郎の墓参り→万葉集終焉の地「因幡国庁跡」→謎の石造物「岡益の石堂」→三仏寺の投入堂。島根では、八雲立つ風土記の丘・神魂神社→松江の散策→出雲大社と、大まかなコースを組んだ。
更に『鳥取県の歴史散歩』を購入すると、巻頭にある「石馬」の写真が目についた。近くの古墳から出土したという“石の埴輪”は、かなり風化してはいるが、「重文」の指定と「本州唯一」とあるのに興味を引かれた。付近には国史跡・岩屋古墳もあり、国道からも近いとあってサブのコースとして組み入れた。
京都南ICから宮津市経由の国道を使ったので時間が掛かったが、予定のコースをすべて消化し、古代史好きの自分にとって非常に充実した旅となった。
鳥取県西伯郡淀江町で「法隆寺にも匹敵する壁画の破片が発掘された」と、ビッグニュースが流れた。淀江町の名前も所在地も記憶になかったが、その記事の中に「石馬」とか「岩屋古墳」の名前を見つけ、懐かしさが驚きと共に蘇ってきた。発掘された上淀廃寺が、石馬のあった神社のすぐそばだったからである。
改めて道路地図を開く。国道9号から入ったのは間違いないのだが、どこをどう通ったのか全く覚えていない。ただ、天神垣神社の境内で写真通りの摩滅した石の塊(馬)を見物し、近くの岩屋古墳の石室の立派さに感心したのだけは覚えている。
さらにガイドブックを読み返すと「密度では山陰第一の福岡古墳群があり、見事な条理遺構も残る」とあることから、大寺の存在もおかしくなかった。
平成5年の今日、今回の目的の一つである、安来市の仲仙寺古墳群(四隅突出型方形墳丘墓)へ向かう。
情報と昼飯のパンを仕入れるため、小さなスーパーに入った。会計時にレジのおばさんに古墳の所在を聞くと、首を傾げてから、奥にいる主人らしい男性に声をかけた。
ところが、丁度居合わせたおじいさんが、タイミングよく教えてくれた。さすがというか、やはりというか、「古いモノは古い者に任せろ」というわけでもないが、野良着姿と野菜の苗の前に立っていることから地元の人に間違いなく、詳しいのも納得できた。
住宅地の裏手から、「開発か保存かで揺れ、わずかに2基残された」という、今は史跡として整備された高台に登る。花曇りで湿り気を感じる陽射しに汗ばんだ。
芝や雑草に覆われた墳丘の形状は、本の写真や図解のような特徴のある形には見えず、「四隅がヒトデ状に延びているかな」という程度で拍子抜けした。
風が強い墳丘上で遅い昼食をとった。食後の甘味は草餅だが、これは先ほどの店から購入したものだ。お菓子のコーナーにあったパック入りは無視できたが、レジ横に積まれたビニール袋で無造作に包まれたソレにはつい手が出てしまった、という経緯がある。
「手作りで、添加物は入っていない(だろう)」という理由は置いて、連続3個一気食いの後に気分が悪くなるという情けない結果となった。主食の甘い菓子パンで紅茶を飲みつくし、残っても困ると水気無しで頬張ったのが祟った。
「国道9号県境渋滞中」の電光道路情報が出ていたので、国道を避け、道路地図を頼りに大きく迂回し西から淀江町に向かった。
「上淀廃寺」の標識と、人が群がっている新しい建物が同時に目に飛び込んできた。道を挟んだ左手にも、一部工事中だが広い駐車場ができている。
「伯耆古代の丘資料館」と名がついた淀江町歴史資料館の出現に、発掘現場を見てから出土品が置かれているはずの県立博物館へ行こう、と考えていたから驚いた。
再びこの地に立つとは思いもよらなかっただけに、過ぎ去った年月と環境の変化に感慨を抱きながら資料館入口に向かった。見学を済ませた家族連れがいる。お父さんの「上淀廃寺まで300メートル」との声に、高校生くらいの娘が「私、行きたくない」と反応している。親の個人的趣味に付き合わされた家族の気持ちも理解できるが…。
入場券を受け取ってから、女性職員に「以前来たときには何もなかったが、立派な資料館ができましたね」と話しかけた。「ええ、ありがとうございます」と返ってきた言葉に、自分にしか分からぬ、わずかなコミニュケーションのズレを感じた。何れにしても、その言葉には、うれしさというか郷土の誇りのようなものを感じた。とにかく町の宝には違いない。
まさかここで再会するとは思ってもいなかった石馬が展示されている。体長150センチの、長い年月と風雨で摩滅した石の馬だが、環境が変わっていきなり多くの人の視線にさらされたためか、身を小さくしているように思われた。文化財とすれば風化は免れるが、「やはり野に置け…」ということなのだろうか。
まだ記憶に新しい、発掘された壁画片が60×60センチ位のアクリルのケースに収められている。それぞれが、敦崗(とんこう)や法隆寺などの壁画や仏像のパネル写真と赤い毛糸で結ばれ、比較対照できるようになっている。
(運命の)“赤い糸”を連想してしまう、全く垢抜けないローカル味あふれる展示方法だが、何とか解り易いようにと努力する姿勢が窺えた。何れも写真で見るより、素材の厚みの分だけ立体感があり、改めて「壁画」を実感した。
展示室中央には壁画出土時のレプリカがある。半ば埋まった壁画片の集まりを見ていると、発見した担当者の驚きも察せられる程で、模造品であっても隠れた主役だ。
何故か、その隣に足跡のレプリカがある。「左足がスベったために右足で踏張り指が深くくい込んだ」と察せられる生々しさに、その姿が想像できようというものだ。その時代に確実に存在しそれを残した顔も姿も分からぬ本人に、時空を越えて親しみを感じてしまった。
別室の郷土関係資料では、二体ある完形の盾持埴輪が目を引く。舟・高床の寄棟倉庫・切妻の平屋根・樹木・鹿・太陽等が横並びに線刻された、径55センチの弥生の絵画土器も面白かった。
資料館の横から上淀廃寺へ向かう。途中、民家の間に延びる小道に入り込んで天神垣神社へ立ち寄った。以前は一目で分かった石馬を安置していた場所も、今日は探す羽目となった。
「独立した方形の石垣上に覆い屋があったが」と思いだしたその屋根の下には、以前は地上にあった石馬の記念碑の丸い石が「昇格」して鎮座していた。史跡標柱も文字が消されていたが、それも色があせ下の「重文」の文字が透けて見える。
あの時は石馬しか目に入らなかったから周りの景観には記憶がなく、この基台もこんなに高かったのかと不思議だった。文化財として石馬が連れ去られ、氏子以外の人は訪れないだろうこの小さな神社は、侘びしく寂しかった。
小さな集落はすぐ途切れるが、右側に小川のある道は更に谷の奥へ続いている。
標識もあるが、先着の見学者が指をさしている姿に上淀廃寺の発掘現場はすぐ分かった。大正年間よりその存在が明らかになっていたとあるが、知らずに足を運んだ神社のこんな近くにあったとは。
傾斜のある地形のため段になっている田と柿畑に囲まれた一画にあるまだ発掘中の現場に、黄色く塗られた「コンパネ舗装」とロープで囲まれた見学道が確保されている。堀上げた土の山はすでにスギナや雑草が生えていた。
トレンチをのぞくと、壁面には瓦の破片が顔をのぞかせており、記念や土産にと手が出そうだ。発掘中の溝は教育委員会御用達の青いビニールシートで覆われているが、調査済みの凹部には先日の雨水がたまり池となっている。
北塔の芯礎だけが島のように顔を見せ、中心部の穴にも水が残っているのが面白い。第三の芯礎があり三番目の塔が建てられた可能性もあるとされるが、それはシートの下だった。それを見る見学者が入れ代わり立ち代わりを繰り返している。
最奥にある壁画の出土した金堂の辺りは保護のためか入れず、見学道中央部に一段高く作られた場所から遠く眺めるのみだ。
そのはるか向こう(西)は、間に丘を挟み平野への展望はない。したがって生産の場である里からは伽藍が遠望できる状態ではなく、まるで隠れ寺のようだ。西日を受けた寺院跡は風が冷たい。
資料館の写真で天井石の立派さを再確認した「長者ヶ平古墳」は、前回その存在が分からなかったが、今回はあっさりと見つかった。農道の脇に古い標柱があり、すぐの山を掛け上がると写真通りの天井石が現れた。
更に右に延びる小道に、古墳群に続くかと見当を付けて進むと工事中の歩道に出た。駐車場から見えた遊歩道につながっているらしい。資材が置かれた山の西側に位置する道からは、鳥取平野の一部が望まれる。ここが、寺院跡から見えた目隠しになっていた丘のようだ。
古墳群に広い遊歩道が巡り、真新しい東屋や未だ表示のない案内板が立つ。唯一の古い標柱が岩屋古墳(前方後円墳・国史跡)で、羨道(せんどう)入口の板状の石がくり貫かれ、天井石がないだけ丁度門のようだ。主室入口も四角にくり貫かれた一枚石だ。
古墳探訪の三種の神器の一つ、懐中電灯を取り出す。一般名は古めかしいが、商品名は「マグライト」と言って、ケースは航空機の素材を使用したメイドインUSAだ。焦点・明度を変えられるリチウム電池を使ったハイテクモノで、古墳見学にはスマートさでよく似合う。
今回持参しなかったもう一つの神器は傘で、「石室天井から落ちる水滴よけ」と思うのは素人で、(オタクとも呼ばれる)プロは虫避けに使う。
古墳によっては、カマドウマが天井一面に張り付いている。別に刺すとか毒があるわけではないが、古い土間などで見られる胴体が太くて後足が長い昆虫は、数が数だけに気持ちがわるい。ザワザワと動き回る音が聞こえ、時折落ちて傘に当たるのにヒヤっとするが、これのおかげで安心することとなる。
そうまでしてお墓の中に入りたいという欲求は単なる「物好き」では済まないと思うが…。因に、神器の最後の一種は、…無い。
床は堆積物で分からぬが、側壁・奥壁・天井は一枚岩を平削した、コンクリートで作られたような巨大な石棺だ(石棺型石室)。奈良飛鳥の岩屋古墳を思い出す。この古墳は二度目の見学になるが、余りの立派さに改めて「ウーン」と唸るばかりだ。
話声と共に男性二人連れが現れた。話の内容からかなりの好き者と見た。思い出せば前回も男二人連れの先客がいて、同じ仲間がいる、と嬉しくなったものだったが。
道路へ斜めに下りる小道に昔の記憶が蘇ってきた。しかし、資料館と古墳群を広範囲に取り囲む完成間近な大がかりな遊歩道が遠望され、景観が一変する日も近い。
壁画が出土したために一躍全国に知れ渡った淀江町にまた訪れる羽目になってしまったが、資料館を含めすでに完成間近の史跡公園を見て、淀江町が地域活性化としてそれにかける意気込みを強く感じた。正に壁画様様である。
上淀廃寺に来る途中の標識にあった「天の真名井」が気になって、ガイドブックを広げた。環境庁選定の名水百選の一つとあるが、それより、ネーミングのほうに惹かれて引き返した。
地区の住民保護のため観光客用に作られた駐車場があり、片隅に、源泉から引いた“名水道”の蛇口がある。しかし、「この目で」と現地まで歩くことにした。なぜか「天の真名井」の名前(文字)が気になって仕方がない。
竹山の麓から湧き出す水は、冷えていないビールと同じで、名前だけを味わった。今で言うコピーライターの勝ちだった。夫婦連れが、「これは安いお土産だ」とペットボトル(有料)に汲んだのが10本近く並んでいる。
駐車場に引き返し、早速コーヒーを煎れたが、高温にさらされた豆は香りがすっかり失せ、折角の名水も役に立たなかった。しかし、「翌朝は名水で洗顔だ」と、車に常備していた10リットルのポリタンの水道水を無料のミネラルウォーターに詰め替えた。
平成5年5月