(私は)未だに長谷村(はせむら)と言ってしまいますが、現在は伊那市長谷になります。山好きなら甲斐駒ヶ岳や仙丈ヶ岳の登山口、パワースポット系なら“ゼロ磁場”で有名になった「分杭峠」があると説明した方がわかるかもしれません。
その旧長谷村に、重要文化財の熱田神社があるのは知っていました。「彩色された彫刻」も写真だけでしたが、「この目で」と、秋が深まった一日を選んで参拝してきました。
鳥居から続く参道と、なぜか左に少しずれた石段を上がると、写真の光景がありました。
まずは、拝殿と繋がった重厚な萱で葺かれた社殿に目を見張りましたが、それは本殿の覆屋でした。その三方は“見事”と形容するしかない格子で囲われているので、その間から重要文化財を見ることになります。
境内にある石造りの案内板です。
マーキングした文言が気になりますが、ここで取り上げるとややこしくなるので後述としました。
私が社殿の造りや彫刻をどれだけ述べても、簡潔明瞭な案内板の説明文にはかないません。その代わりの写真を載せましたが、本殿の左右に小社殿が寄り添っているので、これもよくわからないという結果になりました。
それでも、身舎(もや)の扉に目を細めると「三間社造」であることがわかるかと思います。これによって、熱田神社は三柱の祭神を祀っていることになりますが、案内板からは日本武尊を祀ってあることしか伝わってきません。
彫刻の写真を「これでもか」と並べるのはこのサイトの“趣旨”に合わないので、向拝柱の虹梁(こうりょう)上に横たわる「目抜きの龍※」を“この一枚”として載せました。正面から撮ることができないので斜めの位置となりましたが、図らずも龍から真っ正面に睨まれているアングルになっていました。これには写っていませんが、御扉の上には「熱田大神宮」の扁額が掛かっています。
※目貫(めぬき)は目抜きで、最も目立つ所に飾られた龍の彫刻
伊那市指定有形文化財の「舞宮」です。「この舞宮は以前、熱田神社拝殿の前にあったため『前宮』とも呼ばれていた。昭和十一年に、現在地に移転したものである」と、案内板から抜粋しました。
天井裏に幣帛が三枚見えるので、写真に残しました。その時は過大な興味を持ったのですが、自宅で拡大してみると、書かれた文字が(これが全部読めたら神社通という)「彦狭知命・八意思兼神・手置帆負命」と判明し、熱田神社とは無関係の舞宮の上棟式に使われたものとわかりました。
案内板では、熱田神社の造営に「百数十戸の氏子が三百両という大金を出し合った」とあります。それが、食べるのがやっとという時代に拠出できたことが不思議です。その経緯は知る由もありませんが、“伊那の片辺”に「よくぞ重要文化財を残してくれた」と感心しながら鳥居を後にしました。
覆屋が「本殿の附(つけたり)」として重文に指定されていたので、改めて紹介することにしました。
「四隅の親柱から中心に向かう角度で立てた四方拝み方式で、一本の筋交(すじかい)もなく茅葺きの大きな屋根を支えている。現在の覆殿は、明治21年に従来の材料を出来る限り使用して建築され、昭和五十年に一部屋根の葺き替えが行われ、平成15年から16年にかけて総葺き替えをした」とあります。「四方拝み方式」がわかりませんが、本殿の写真に覆屋の屋根組が一部写っていますから参照してください。
各町村の地誌をまとめた長野県『長野県町村誌』があります。明治初期の編纂になりますが、〔長谷村(美和村・伊那里村)〕では「熱田八劔社」と表記しています。下記の長谷村誌刊行委員会『長谷村誌』は「熱田神社」ですが、祭神の一柱に「草薙剣」を挙げています。
宝物及び旧社領 勾玉1個(日本武尊)、大蛇の白骨1個及び宮記1軸(社伝記による)、(後略)
伝説 日本武尊東夷征伐の帰路、甲斐国酒折宮より山路を越えこの溝口の里に出た。桑の大樹の下に行宮(あんぐう)を建て(今この地を桑田と呼ぶ)、三峰川の上流にて大蛇を切り、流血が河石を染む(今この地を赤河原と呼ぶ)、そして、その頭を行者が傍に埋めて住民の苦慮を除いた。後に里人等はその恩沢を慕い尾張の国の熱田神社の形影を移し勧請した。(中略) 境内に欅の大樹があり、その下に大蛇の白骨が顕れたと口碑に伝えられているというので、高霊(たかむすび)神を祭って霊神社と尊称している。(後略)
古くは、「草薙剣」を祭神として「+八劔社」という名称にしたと思われます。これで各神殿に祭神三柱が収まったことになり、「三間社」の造りを「“なるほど」と合点できました。
代わって、神宝の「大蛇の白骨」が気になりました。『南アルプスの里■長谷 国重要文化財 熱田神社』とあるパンフレットに、〔余話〕として以下の文があります。
33画もある漢字が一文字あります。「雨+口口口+龍」で、音読みが「れい」ですから、『長谷村誌』の「霊」でも間違いではないかもしれません。
この社が、境内にあった龗(おかみ)神社でした。長野県では比較的珍しいので、「龍」の字が付く神を探したら“この神社になった”とも考えられます。
神社巡りをしている私は、熱田神社の由緒に幾つかの疑問を感じました。私の性分では「そのままにしておく」ことができないので、「図書館で手にすることができる本」と限定されますが、その幾つかを調べてみました。以降は推察が多く含まれているので、そのつもりで読んで下さい。
【造営費三百両】 案内板は「百数十戸の氏子が三〇〇両という大金を出し合った」と書いています。江戸時代でも変動がありますが、今の貨幣価値では5億円ともいわれます。単純計算では一軒当たり300万円を越す負担金となりますから、果たしてその通りなのか…。
【形影(けいえい)】 辞書には、熱田神社の由緒にうまく当てはまる説明がありません。『長谷村誌』では「熱田神社(※愛知県の熱田神宮)の形影を移し勧請した」という記述なので、本社である熱田神宮の社殿様式「三間社」を導入したと考えてみました。
【三方三っ辻】 これも、辞書やネットの検索では見つけることができません。「三方・三辻」のことだと思われますから、熱田神宮の東・西の鳥居と正面の鳥居、それを結ぶ交差する参道の辻を表した言葉としました。熱田神社には拝殿を正面とする鳥居の他に東と南にも鳥居がありますから、本社の「三鳥居・三参道」を模したということでしょう。「形影」とともに、神社に残る『古文書』を書いた筆者独自の造語ではないかとも考えてしまいます。
【信濃なる伊那てう里の片辺にも 恵み熱田の神の御柱】 これは境内の案内碑『熱田神社』に彫られた歌ですが、「熱田」は、以下に出る『長谷村誌』のように、あくまで「あった(あつた)」と書くべきでしょう。「(恵み)あった」は「熱田」の《掛詞(かけことば)》だと思われるからです。
また、「御柱」は、諏訪から来た私はつい「おんばしら」と読んでしまいます。その先入観は別にしても、「柱」は、一般的には神を数える単位と捉えます。そのため、この熱田神社には、伊勢神宮の「心御柱(しんのみはしら)」に相当するような「御柱」がありませんから、何か釈然としません。
「御柱」をどう解釈すべきかを悩んだのは私だけのようですが、「御社(みやしろ)」と書いてある本を見つけました。
『長谷村誌』では三巻とも「社」の表記ですから、「柱」は「社」の誤記であることがわかります。また、歌としても、「御社・みやしろ」とした方がスッキリします。
こうなると、地元を含めて世間で通用している「神の御柱」が“倒れてしまう”ことになります。案内板や案内書は修正できますが、石碑は…。
【目貫の龍】 この彫刻は「竣工から約40年後に献納されたもので、彫師は不明」だそうです。しかし、この空白期間を考えると、史実に載らないドラマがあったように思えてきます。余りにも嵩(かさ)んだ造営費の支払いが滞り、40年後に完済した時点で(借金の担保となっていた彫刻が)取り付けられたのかもしれません。