この『新編会津風土記』に載る〔原村〕の神社を、平仮名に直して転載しました。
守屋神社 境内十六間四方免除地 村西三町余にあり、鎮座の年代を詳にせず、守屋大連を祭れり、鳥居・幣殿・拝殿あり、
伊勢宮境内にあり、相殿三座あり、山神本村より移せり、鬼渡神同上、金澤神同上、
神職丸山主計(かずえ)、其先は喜膳某と称す、何の頃神職となりしか詳ならず、今の主計某は五世の孫なりとぞ
村中を白河街道が通り家数も79軒とある原村が、なぜ家数24軒の経沢(へざわ)村にある守屋神社を勧請したのでしょうか。「それだけ神社の創建が古かった・原村の草分けが経沢の出身者だった」などが考えられますが、長野県に住む私では、それ以上のことを書くことはできません。
登録しておいたカーナビの指示通りなので、どこをどう通ったのかわからぬまま鳥居の前に着きました。この前(背後)には田圃が広がっていますが、集落はやや離れた場所に望めました。
拝殿前には、向拝から滑り落ちたと思われる雪の山が残っていました。それを見れば、冬の寒さに比べれば各段に暖かいと言えますが、横殴りの風に雨混じりとあっては、カメラを持つ指の冷たさを意識してしまいます。
拝殿の左後方に少しだけ写っているのが、『風土記』にある「伊勢宮境内にあり、相殿三座あり」の祠でした。表記外の諏訪神社があったのでカメラに収めていましたが、ボケていたので掲載は見送りました。
本殿は流造(ながれづくり)に間違いないと思いますが、屋根に置千木があることに気が付いてしまうと、やはり違和感を持ってしまいます。
ここも、雪対策で、拝殿と本殿の渡り部が囲われていました。確認はしなかったのですが、完全に密閉してあるのでしょう。
改めて拝殿の小窓、といっても四枠分だけ空いた部分から、暗くて見えない内部を二枚撮り、拝殿の大棟に飾られた神紋「三つ巴」を見納めにしてから守屋神社を後にしました。
自宅でレベル補正をかけると、御簾の後ろに日の丸が掛かっており、左右に随身像があることがわかりました。さらに目を凝らすと、左隅に砲弾が幾つも置かれています。その古めかしい形状から、日露戦争の戦利品と考えました。
何かを見たり聞いたりする中で、突然別の記憶がよみがえってくることがあります。今回は、守屋神社で溶け残った雪を見て、NHKが放映したドキュメンタリー『雪の墓標』が頭に浮かびました。ネットとは便利なもので、強烈な印象を持ったことで覚えていた題名に「会津」を加えて検索すると、即座に、平成5年4月30日に放映されたことがわかりました。