『波田(はた)町誌』で、杉葉で囲った三峯社の写真を見ていました。それから2年経った今、波田の図書館で『波田町誌』を再読し、その所在地の詳細を調べてから参拝する計画を立てました。
ところが、その前に立ってから「本日休館日」を知りました。蔵書の整理ということですが、当てにしていた情報が得られないとあって途方に暮れてしまいました。
波田神社や諏訪神社ならこの地で出会うすべての人の知るところですが、辻の片隅にひっそりと佇む小祠では…。しかも、すでに存在していない可能性もあります。そうは言っても出直すのは大変ですから、『波田町誌』が置いてありそうな場所を考えました。以前、同じ理由で下條村の役場で『村誌』を閲覧させて頂き、応対してくれた職員から詳しい話を聞くことができた経験があります。近くに松本市役所波田支所(旧波田町役場)があるので、気を取り直しました。
右隣が支所という建物に「公民館」の文字を見つけました。大きな施設なので波田中央公民館と勝手に解釈し、ここなら、と受付の前に立ちました。残念ながら『町誌』は置いてなかったのですが、職員がその手のものは詳しいという館長を紹介してくれました。しかし、私の下手な説明もあってか、早々に「わからない」という結果が出ました。
災難に遭うか幸運に恵まれるか、とりあえず《犬も歩けば》を実践することを考え始めた中で、館長は「詳しい人がいる」と電話で問い合わせてくれました。そのやり取りの中で「杉葉の祠ならある」を聞き、松本・塩尻地区では杉葉が主流であることを思いだしました。
実は「萱(カヤ)」で説明していたので、話が噛み合わなかったことが判明しました。館長にその旨を告げ、「杉葉の祠」までの略図をお願いすると、「その祠なら知っている」ということで詳しい案内図となりました。
郵便局の前を曲がり→消防の屯所→仁王門→田村堂と順調に進み、その先を左折しました。
登り坂の下から撮った写真です。中央の“何か”が三峯社の祠です。イメージと違い完全な枯葉色だったので、直近になるまで気が付きませんでした。家が丸ごと写っていますが(プライバシー保護の観点もありますが)、この景観は外せないということで、三峯社の背景になってもらいました。
因みに、この道をたどると、「江戸時代後期には信濃日光と称されるほどの規模を持った(※『Wikipedia』)」若澤寺(にゃくたくじ)跡へ行けるそうです。
祠の構造がわかるように、また防火水槽の標識をカットしたら、この構図になりました。電柱が目障りですが、こればかりはどうにもなりません。
背後は、梓川の左岸となる山々です。その源は穂高岳(上高地)ですから、長野県民以外の人でも松本市波田の大凡の位置がわかるかと思います。
杉葉とスダレ(御簾)と高床式ですから、この辺りでは正統派の三峯社です。スダレの隙間から読むと、前面の木札二枚に「三峯神社御祈祷之神璽(しんじ)」と、“包み紙”に「上波田 講社御中」とありました。
前の白い板に、「三」と「峯」の上四分の一だけが健在の文字が書かれています。下のかすれている字を想像力で補って繋げると、この祠の「改築記念板」となりました。名前らしき文字は、トタンで覆って改築(寄進)した人の名でしょうか。背後に廻ると、そのトタンが見えました。
目的を達したのでトコトコと下り始めると、一目でこれから農作業に向かうとわかる年配の女性に会いました。この近くの住民に間違いありませんから、さっそく話しかけてみました。
「ここは、昔で言う小字(こあざ)『寺上』(※下方に旧若澤寺の一堂があり、国重文の田村堂がある)。三峯講は現在17軒で続けている。杉葉を集めるのが大変なので、2年に一度葺き替えをしている。昔は秩父の三峯神社へ代参に行くのが楽しみだった」などと聞くことができました。
公民館長から「石畳がある」と説明があった上波田です。三峯社詣でには、この石畳を往復しました。
案内板に「旧野麦街道の沿道及び旧若澤寺の門前町として歴史的な街なみが残る…」とあり、街なみ環境整備事業で造られたそうです。両側に続くどの家の庭もよく手が入っており、うらやましい限りでした。
波田町誌編纂委員会『波田町誌 自然民俗編』の〔民間信仰〕に、「三峰講」があります。(かなり)参考になるので転載しました。