地図にある「大六天社」への入口には、「天白サイホン」の標識がありました。
尾根上に出ると、本来はあり得ない空の用水路が道に沿って続いています。どこでその原理を使って揚水しているのかわからないまま、三之蔵大六天社の鳥居が現れました。
空の拝殿を通した向こうに石段が見えます。拝殿内を素通りし、途中から石が無くなった斜面を登り切ると、馴染みのない(読めない)「面足命(おもだるのみこと)・惶根命(かしこねのみこと)」と刻まれた燈籠が迎えてくれました。その間を抜けると、立地が尾根の先端とわかる場所に、柱のない「お腰掛」がありました。
Blogの話通り、礎石だけが方形に残っています。真ん中には「石棒」はなく、その代わりのような一本の幼木が生えていました。
ただ不思議なのが、お腰掛の前にある石の祠です。剣の奉納は「上今井山神社」と同じで「お腰掛」と理解できますが、その石祠の存在には違和感を覚えてしまいます。「大六天社と山神社は別物」としたほうが自然ですから、明治期に両社を一まとめにしてしまった可能性を考えてしまいました。
四箇所にある礎石ですが、これも予備知識通りに「柱の大きさ形に合わせて丁寧に加工してある」のが、角度によってわずかに現れる陰となって見えます。この石には、柱の跡が緑色に残っていました。
見る人が見れば、まだ「お腰掛」です。しかし、「只の石が四つ」に変わる時代も…。
燈籠の存在から「拝殿は大六天社のもの」と見ることができます。その拝殿に戻っても見るべきものはありませんから、屋根裏を見上げると…。
このような構造物が残っているのは、もはや神社しかありません。お腰掛はすでに廃絶し、人の手の温もりが感じられる拝殿も、痩せた鳥居と同様に先は見えています。
しかし、「さー、これから」という五月の陽光を浴びると、一時の感傷は、すぐに若色の緑に打ち消されました。
昭和54年発刊『韮崎市誌』には、「土地の人は〔お天狗さん〕と呼んでおり、祭神は面足尊と惶根尊二柱である。仏家でいう第六天が習合されて祭られるようになった民間で信仰された神であろう思われる」「崇敬者 四七戸」と書いています。
その大六天社ですが、同書の「朝穂堰(ちょうほぜき)」開削の記事から、享保三(1718)年に、その成功を祈って三之蔵が勧請したことが明らかになりました。
これで、「山ノ神の境内に第六天を祀った」と考えた方が自然となりました。
まず「お天狗さん」と呼ぶ山ノ神があり、「お腰掛」が造られ鉄剣が奉納された。→その社地に第六天が勧請されて「石祠」が安置された。→朝穂堰の完成とその恩恵に第六天社がメインとなり、鳥居・灯籠・拝殿が造営された。→山ノ神の存在が薄くなり御腰掛が廃絶したという流れです。これで間違いないでしょう。