『長野県町村誌』にある「長谷村」を読んで、諏訪神社の境内に「風穴(ふうけつ)」があることを知りました。その詳細があれば、と『長谷村誌』を読み進めたら、「風穴の上に風穴大明神が鎮座する」という記述がありました。
「風穴行き」のきっかけとなった、明治期に編纂された長野県『長野県町村誌』です。
たったこれだけですが、具体的な「諏訪神社の境内」と「大きさが30センチ弱」は貴重な情報です。
長谷村誌刊行委員会『長谷村誌』では「本節においては『木下蔭』の地誌の中から長谷村に縁のあるものを抜粋し」とありますから、ここでは抜粋のまた抜粋になります。この書は葛上紀流忠照が安永8年(1779)に編纂したものだそうですが、諏訪に住む私には初めて聞く書名と人名になりました。
一、此むらに風穴といひ伝ふる所あり、前浦・奥浦のあいだの山尾根先に松柏茂りたる森のなかに屈曲の岩重りたるなかに穴ありて常に風を生ず、此岩を動かし、ある穴を見んとすれば必ず大風ふいて荒れる、よって里民制してあたりへ寄ることを禁ず、この穴の上に風穴大明神といふ祠あり、この穴の口へ鼻紙をおけばいまも空へ吹き上げるとぞ、
代わって、天保5年(1834)脱稿とある井出道貞著『信濃奇勝録』です。この書は、なぜか、「風穴」にリンクして記憶の底から浮かび上がってきました。その理由を図書館で確認しようとしましたが、ブラウザのブックマークに登録してあったことに気が付いたので、国立国会図書館『近代デジタルライブラリー』で読んでみました。
ネットで『信濃奇勝録』が読めるとは便利な世の中になりましたが、それよりも、ここに「同じ風穴」の記述があったので、自分の記憶力もまだ捨てたものではないと自己評価をしました。ところが、『木下蔭』と同じような文面なので、元々の原典が他にあるのか、または井出さんがこの書を参考にしたことも考えられます。前置きが長くなりましたが、現代仮名遣いに直して、以下に転載しました。
「伊那市 浦 風穴」のキーワードで検索したら、『国土交通省中部地区地方整備局』なるPDF文書が表示しました。始めは何かの間違いと思いましたが、前述の古文書を挙げているので「風穴」にかかわる情報であることがわかりました。ここに添付してある地図にはその場所を○印で示していますが、明らかに諏訪神社と三峰(みぶ)川の中間である山の斜面を指しています。“明治の県”と“平成の国”の公文書は、どちらが正確なのでしょう。
「浦の神社」に、村社諏訪社の境内神社五社の一つとして「風穴社」がありました。
諏訪神社は、二度目とあって勝手がわかっています。まず、『町村誌』を優先した「境内」を探しました。ところが、玉垣などの境が無い境内では、どこまでを対象にしていいのか悩みます。
見つからないこともあって、古文献の「尾根の先・松柏が茂る森の中・岩が重なる中」を加味すると、社殿右方の大岩が対象になります。しかし、谷側に降りてその重なる岩を見上げてもそれらしき穴はありません。
後は、平成の情報「山の斜面」しかありません。サーチライトで照らすように左右を広範囲に見回しながら下ると、サルが一匹沢筋から右方へ横切っていくのが見えました。高野山慈尊院の犬と違い、諏訪神社のサルが案内してくれるわけがありませんから、落ち葉に埋もれている岩石に足を取られながら下ります。
なぜか、写真のような平地が幾段もあります。藪になっていないので現在も手入れがされていることが想像できますが、「何の跡」なのか理解に苦しみます。
この斜面は、今は周囲に木が茂っていて暗いのですが、日当たりはよさそうです。また、完全な水平を保っているので、畑ではなく水田跡が考えられます。しかし、超過疎となって久しい集落ですから、目的もなく整備することは考えられません。落ち葉は積もっていても、まだ原野になりきっていないということでしょうか。私には不思議な光景に映ったので、長々と書いてしまいました。
かなり下りましたが、膨らんだ山腹が複雑に重なりあっているので三峰川は見通せません。径2mmの印を換算すると「何百m」にもなる地図です。作成者も現地で確認したのかという疑問もあるので、切りを付けて戻りました。
キノコ採りと同じで、探す角度の違いで見つかる場合があるので、復路でも目を光らせました。これは、と思われる石の隙間に何回か手を入れましたが、日陰の霜や氷が溶けないという今日の天候では、多分外気温の方が低いので冷たさで判断することはできません。
尾根上に諏訪神社が見えるという斜面で、写真の穴を見つけました。しかし、手の平を入れても風は感じません。それでも念入りに調べたのは、傍らに鉄筋が突き刺してあり白いビニールテープが巻かれていたからです。
これを風穴がある場所の目印と考えたいのですが、現実には何らの現象も感じられません。ポケットに忍ばせたティッシュを広げる気にもなれず、平成の世では、すでに風穴は埋もれてしまったと考えました。
「平家の里」に通い詰めて、といってもまだ三度目ですが、勝手知ったる浦公民館の広場に車を駐めました。「駐禁」ですが、今日は「ものを尋ねる」という大義名分があります。
別荘を除けば無住の家が多いので、まずは洗濯物を干してある家を探します。二軒目では窓を通して人影が見えたので、さっそく声を掛けてみました。応対に出たおばあさんに、まずは不審者と思われないように「こんにちは、少しお聞きしたいのですが」と来訪の意を告げます。その後で、浦の風穴がどこにあるのかを尋ねてみました。
「風穴は今でも諏訪神社の境内にある」ことは確定しましたが、言葉のやり取りでは、私の記憶にある風景のどの場所とも一致しません。今日で決着をつけようと来ましたから、「拝殿の前・境内の横・大石」などと壁に指先で図示しながら質疑を重ねます。
もう現場へ行くしかないと諦めた時に「おじいさんが帰ってきた」の声で振り向くと、この家の当主でした。改めて説明を受ける中で、「あの辺り」と見当を付けました。話の終わりに去年の経緯「鉄筋とテープ」を話すと、「それは、私が(風穴の)目印に刺したものだ」と言います。「あの辺り」は、ピンポイントで一致しました。
諏訪神社前の道に降り立つと、まだ隙隙(すきずき)としている若葉を通して春ゼミの声が流れてきました。今日は、異常に寒かった冬があったことなど思い出せないほどの陽気ですが、季節は確実に半年を巡っていました。
諏訪神社に挨拶をしてから、鉄筋がある場所に向かいました。ところが、去年の記憶と異なり、大小二つの穴が開いています。『長野県町村誌』にある「口の径九寸に八寸許あり」は、楕円ではなく風穴が二ヶ所あると理解できました。
吹き出し口に掛かったクモの巣がわずかに揺れていますが、その上に手をかざしても空気の動きはありません。穴底に手を入れても温度差は感じませんから、話に出た「落ち葉で埋まっているかもしれない」が推測ではなく現実のものとなりました。潔く諦めて周囲を見回しますが、「鳥居があった。遊園地があった。村民の憩いの場所だった」も過去形ですから、いくら想像をたくましくしてみても、その痕跡でさえも見つけることはできません。一面に覆った枯葉を見渡すだけとなりました。
おじいさんは「北風が吹くと、崖に当たった風が(岩の隙間を通って)吹き出る」と話して(推定して)いましたが、確かに、地形からもそれが窺えます。二つの古い地誌を読んでからは「ティッシュが浮遊するのを見たい」と思い続けていましたが、地元ではそのように理解していたことがわかりました。何事もそうですが、特に“奇勝(現在はパワースポット)”についてはかなり割り引いて読むことが必要でしょうか。
後日、図書館で、黒河内谷右衛門著『入野谷の伝承』を見つけました。「浦の風穴」があるので、抜粋ですが転載してみました。
ここでは「伝承」ですが、今では“名のみ”であっても確かに風穴は存在していました。