この写真は、奈良井川の堤防上から撮った沙田神社の一ノ鳥居と参道です。
創建当時の景観を知る術はありませんが、現在の奈良井川から始まる参道が奇異に映りました。難読の沙田(いさごだ)と相まって何か曰(いわ)くがありそうですが、今持てる知識では想像もできません。
二ノ鳥居からは参道の両脇にケヤキの大木が並び、角柱の灯籠にも風情を感じます。ところが、竿に刻まれた「明治37年・国威宣揚記念燈」を読んで、一気に評価が下がりました。それでも、参道並木が陰を長く延ばしているのを見て、一枚撮ってしまいました。正面は「御仮屋殿」です。
社殿を内側に囲んだ場所に黒木の御柱が建っていました。写真は「沙田神社一之御柱」で、かなりの大きさです。
境内の隅に「御柱献木者芳名」碑があります。読むと、予備知識通り、「御柱は波田町からの寄進」でした。
拝殿の内部は、通常は扉が閉まっているので見ることはできません。
ここでは、例祭日に撮った、天保四年の絵馬や輪島塗の奉納額が懸かっている写真を載せてみました。最奥が本殿ですが、渡殿が長いので扉しか見えません。
拝殿前にある『沙田神社略記』で、祭神が(出が脱字という)彦火々見尊(ひこほでみのみこと)・豊玉姫命・沙土煮命(すいじにのみこと)とあるのを読んでから、本殿が仰げる場所に立ちました。
神明造の本殿は千木が「内削ぎ」です。その説に従えば、主祭神は女神の豊玉姫命になるのでしょうか。しかし、“沙田”の神社名から、豊玉姫より「沙土煮命」との関係が濃厚と思われます。
それより、「諏訪の神様を祀っていないのに御柱を建てるとは何事か!?」との思いが大きくなります。ここで、生半可な知識で追求するのも大人気ないので、「御柱がある沙田神社」として参拝を終えることにしました。
現代語訳の『古事記』から、関係する部分を転載しました。
『古事記』 次に現れたのは、男神の宇比地邇神(ウヒヂニノカミ)と女神の須比智邇神(スヒヂニノカミ)、脂のように漂うもののうちから、潮と土とは次第に分たれて、ようやく砂や泥を混じえた沼となったことを示している。
『日本書紀』 次に現れたのは、泥土煑尊と沙土煑尊。または、埿土根尊と沙土根尊と言う。
沙土煮命が女神ということなので、千木の内削ぎも納得できました。
拝殿の彫刻(下部)と鬼板を含めた瓦に、菱形を三つ重ねた「三階菱」が見られます。神紋と言うより、社殿の造営に関わった小笠原家の家紋を表に出したということでしょうか。
その拝殿前に掲げられた『信州三之宮式内 沙田神社略記』から、由緒と祭典の一部を抜粋して以下に紹介します。
自宅でじっくり読んでみましたが、「 」の部分がよく理解できません。「萱穂・柳葉…」は、由緒書によくある「引用原典の過省略」が原因で、「なぞらえて」以下に何か抜けたものがあると考えてみました。「仁寿年間より…」は、「仁寿から400年後に御柱祭が始まった」という意にも取れます。それより、仁寿は「851〜853年」ですから、「(現在まで)千二百年を経て」の誤記としてみました。しかし、ここで『略記』を勝手に替えることはできません(と、毎度お馴染みの突っつきが…)。
谷川健一編『日本の神々』に、小松芳郎さんが執筆した『沙田神社』があります。以下の文が大変参考になるので、分けて転載してみました。
冒頭の「かつての例祭7月26・27日」は、諏訪神社(以下諏訪大社と表記)の「御射山祭」と同日です。そのため、諏訪大社との類似性を見ながら読み進めると、「御仮屋殿の前に萱で仮屋を作る──御射山社にススキで仮屋(庵)を作る」と「本殿から仮屋へ御神爾(神体)を遷座──諏訪大社上社本宮から御射山社の仮屋へ御霊代が遷座」となります。
また、「奥社(旧跡地)──沙田神社」も、諏訪大社下社の例をとると、余りの遠隔地故に移転した「旧御射山社(霧ヶ峰)──御射山社(武居入)」の関係となります。
これを読んで、私が“苦言”を呈した『神社略記』にある「萱穂・柳葉六十六本を六十余州になぞらえて…」の“難解さ”は、「御手祀とし」を省略したために意味不明となったことがわかりました。
それはそれとして、「萱穂と柳葉数本を執持ちて…」は、諏訪大社下社の遷座祭では「神職が楊柳の幣帛を小分けにしてリレー形式で宝殿に納める」ので、類似性があります。
これに「御柱」が絡まりますから、“今”でも「沙田神社は諏訪神社」ということになります。しかし、以上の諸事を私が挙げてみても、沙田神社の祭神三柱の座が揺るぐことはありません。
甘酒はともかく、「生瓜を切った神饌」を初めて知りました。何か曰くがありそうですが、その故事はわかりません。
最後になった「御神座の真下に大きな桶を置き、この桶に水を少し入れる」が“意味深”です。興味がある方は、〔各地の神社メニュー〕の「沙田神社の御仮屋殿」をご覧ください。
菅江真澄が書いた『委寧能中道(いなのなかみち)』に、沙田神社の見聞記があります。祭りの様子を具体的に書き留めてあるので、江戸時代の「建て御柱」がどのようなものかがよくわかります。
信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』から、参考として〔神無月の21日〕を転載しました。読みやすいように“改変”してあります。
左の絵は、岩崎美術社『菅江真澄民俗図絵(上)』から、挿絵として描いた「沙田神社御柱三本立つ」です。旧暦の神無月は現在の11月ですから、「紅葉」で描かれています。
左は、前出の『菅江真澄真澄民俗図絵(上)』から「沙田神社御柱のひきあげ」です。
諏訪大社の「建て御柱」は、同じ人力でも、ワイヤーと滑車を利用した現代の「柱建て」をしています。一方、現在でも古式を引き継いでいる「生島足島(いくしまたるしま)神社」と同じ方法が、この見聞記の中に見ることができます。
また、江戸時代でも“御柱命(向こう見ず)”の男がいて、持ち上げる柱の下に留まる姿が書かれています。「お祭男は、いつの時代でもいる」ということでしょうか。
沙田神社は式内社を謳っていますが、多くの式内社がそうであるように、正確には「比定されている」神社です。それだけ創建が古いということですが、その長い歴史故に(誰も言いませんが)多くの謎を秘めています。諏訪社ではないのに御柱を建て、例祭では彦火々出見尊・豊玉姫命・沙土煮命の三柱を祀っているというのに幣帛が一枚(本)しか上がっていません。また、「信濃国三之宮」というのに、松本藩の地誌『信府統記』の〔島立興〕にある「島立村」には「沙田」の名はありません。不思議と言うより、私にはスッキリしない神社に映っています。
氏子の一人に訊いたことがあります。地元では「産ノ宮」と考えていると返ってきました。文字としての史料に何かないかと探してみると、式内社研究会『式内社調査報告』の〔沙田神社〕に【神職】の項がありました。ここに載る『三宮神主根元浅澤系圖』の一部です。
ここでは三社(彦火々出見尊・豊玉姫命・沙土煮命の祭神)を勧請したとあるので、「三宮(さんみや)」とするのが正解でしょうか。試しに、西の方角を地図で見ると、新島々駅の近くに「大明神山」があります。関係は無いようですが…。
沙田神社では9月26・27日に例祭が行われます。その見聞記は以下のリンクで御覧ください。