■ 須賀川市は会津ではなく、福島県人が言う「中通り」でした。以前、福島県で聞いた天気予報の「会津地方・中通り・浜通り」を思い出しました。
車が揺れるほどの強風と雨に、守屋神社は直近という空き地で待機しました。ウィンドウを水滴が斜めに流れ去っていいくのを見ているだけという状況は、旅の空では耐えがたい時間の浪費となります。30分が経過して空が明るくなれば、「もう待てない」と、風が弱まる合間を見計らって行動を起こしました。
ちょっとした小山に登る道があり、頂点からやや下った場所に守屋神社がありました。写真の通り、「これが守屋坂!!」と納得しました。
広い境内の奥まったところに拝殿があり、その前には土俵がありました。諏訪神社ではよく見かけますが、守屋神社として訪れた私では、その因果を説明することはできません。
日が射してきましたが、執拗にぶり返す雨が正面から強風に乗ってカメラを向けるのを拒みます。
拝殿に大きな奉納額が掛かっています。右が「物部守屋大臣」なので、守屋神社の由緒を絵解きにしたものと見ました。ところが、「旧町守屋神社御祭神白山様」「旧里守屋神社御祭神お神明様」と続くので、この神社の祭神をイラストにしたものとわかりました。
久しぶりに境内社が連なっているのを見ました。この中に諏訪社もあるはずですが、立ち寄り参拝者の身ではそれを指摘することはできません。
本殿は覆屋で、拝殿との連結部もすっぽり覆われていますから、この造りが当地の標準なのでしょう。
拝殿の左方に「守屋神社」の社号標と由緒が書かれた石碑がありました。由緒はオール漢字なので、「守屋」を見つけただけで、カメラに収めるだけにしました。
車に戻ると、集落のあちこちを桜が白く彩っているのに気が付きました。風が冷たいので、ガラス越しに当地の春爛漫を眺めました。
カーナビに「諏訪峠」が表示しています。守屋神社と諏訪の関係が気になりますが、岩瀬図書館の閉館時間が気になります。先を急ぎました。
岩瀬村史編纂委員会『岩瀬村史 第五巻 民俗編』から、〔守屋神社〕の一部を転載しました。
これを読むと、明治以前では、守屋神社の存在が微妙になっています。それを知らずに参拝してきたことになりますが…。
それはそれとして、二つの旧村を地図で調べると、現在も集会所やバス停の名で残っていました。
ここでは、「昭和七年測図之縮図」とある五万分一地形図『長沼』の一部を載せました。これを眺めると、両村の中間にある尾根先に守屋神社を造営したことがわかります。
図書館で、『岩瀬村史』の他に、勧めてくれた別の資料もコピーしてもらいました。今となっては〔守屋神社〕とあるだけで書名がわかりませが、〔由緒沿革〕に以下の記述がありました。
「守屋坂」は「守屋神社の前にある坂道」ではなく、小字(こあざ)とわかりました。長野県の木曽にある「諏訪坂」が「諏訪神社の前にある坂道」なので、そう連想していました。
「神明宮に物部守屋の霊を合祭した→明治になって白山大権現を合祀して守屋神社と改称した」という変遷になります。これで、守屋神社を両村の中間に造営したのではなく、守屋坂にある神明神社に、町守屋の白山媛神社を合併させたということになりました。
つまり、(伝承は別として)守屋神社は明治以降の名称ということになります。これで、守屋村があって物部守屋の伝承が生まれた(作られた)のか、物部守屋の故事から守屋村と名付けたのか、部外者の私は訳がわからなくなりました。
諏訪峠 守屋神社より西北方の地点に位し会津に通ずる唯一の道路だった。此の峠に、旧二階堂家の守護神として諏訪神を祭る。これより諏訪峠と称したと言われ、また、須賀川の諏訪神社は、この神社を奉斎したものと口碑に伝えられている。
カーナビに表示した「諏訪峠」ですが、上文の如く、期待した守屋神社との関連は、…消えてしまいました。
試しにストリートビューで走ってみましたが、それらしきものは見つかりませんでした。
守屋神社の隣ですが、一壇下がった所に観音堂がありました。山号は「守屋山」でした。
守屋神社がメインなので、「仙道三十三観音第三十二番札所」とだけ紹介しました。