松本市のシンボル松本城からは東南に当たる千鹿頭(ちかとう)山に、同名の千鹿頭神社が鎮座しています。
この写真ではわかりませんが、尾根上に本殿と拝殿が並立しています。
案内板で“分裂”の経緯はわかりました。そこで、今の世ではどうなのかと『長野県神社庁』のサイトを閲覧すると、
現在は同じ松本藩(市)ですが、“同名異社”はそのままでした。
どうせ行くなら「桜の千鹿頭神社」と決め込みました。40年ぶりの再訪となりましたが、当時の記憶はまったく残っていないので、案内板の指図に従って千鹿頭山を周回してきました。
二つ並べた写真では、初めに目が行くのが右の神田千鹿頭神社の鳥居です。色や千鹿頭池という景観に左右されますから、左の林千鹿頭社の鳥居は裏参道として映ってしまいます。こちらにも案内板と灯籠・神庫がありますから、全くの同格です。
どちらの参道から行くのか迷いますが、「林さんなら、左」「神田さんなら、右」という程度でしょうか。因みに、注連縄の房は「林5・神田3」ですから、差別化をかなり意識しているようです。
尾根の真ん中に、本殿が二棟並んでいます。大きさや造作などが微妙に違っていますが、基本は一間社流造です。社殿の詳細は『松本市文化財ホームページ 松本のたから』に詳しいので、二番煎じは止めました。その代わり、私の得意な「重箱の隅を突っつく」目で、それぞれの本殿を見比べてみました。
本殿の大棟に見られる地区名と神紋です。「神田」は、一目でどちらの本殿かわかるようにしたものでしょう。お参りに行って、よその神様に賽銭をあげられては困ります。
右は諏訪大社上社の神紋「諏訪梶」ですが、「○」があるので、「ここは高島藩の領地」を強調する高島藩主諏訪氏の家紋と見た方が妥当でしょうか。
本殿身舎(もや)の蟇股です。中央に、初めは気が付かなかった上写真の右側と同じ「諏訪梶」と、左右に千“鹿”頭神社を意識した「鹿の番(つがい)」が彫られています。
その周囲には、十月の花札「紅葉に鹿」でお馴染みのモミジもあしらわれていました。また、向拝柱に結びつけられた竹は(軸が黒い)黒竹でした。かなり、差別化を意識しているようです。
「林」を図案化した「丸に林」です。神田に対抗して掲げたのか神田に真似されたのかわかりませんが、「林の千鹿頭社」を強調しています。神紋は旧諏訪神社(現諏訪大社)の分社に多い「立ち梶の葉」で、梶の一枚葉を用いています。この紋は、本殿前の萱葺き拝殿にも見られます。
向拝の蟇股は「林」ですが、本殿身舎の蟇股は「立ち梶の葉」です。神紋のみで、「神田」と違い装飾の彫刻はありません。その代わりでしょうか、身舎三面の蟇股には「千・鹿・頭」と一文字づつ彫られていました。
本殿の扉は「神田」と同じ格子ですが、ビニールシートで覆われていないので何かが見えます。カメラで拡大すると、何と鹿の頭が現れました。角があるので牡鹿です。場所を変えると雌鹿の頭も一部見え、やはりモミジの葉も彫られています。
内陣があり、御扉に彫刻があることがわかりましたが、現時点では詳細はわかりません。例祭時の開扉に期待するしかないでしょう。また、こちらの向拝柱にある竹は、青竹でした。
諏訪では「之」ですが、ここでは「位」となる一位と二位の御柱の中間に立ち、社殿配置の長軸を狙って撮ってみました。
本殿が見えない中では正確ではありませんが、写真の中央が神田と林の境です。初めは「神楽殿と拝殿の二棟」としていましたが、それぞれに「神田」と「林」の紋があるのに気が付き、手前が神田千鹿頭神社の拝殿で、奥が林千鹿頭社の拝殿と理解できました。
狭い尾根上なので、大きな拝殿を並立させるのは無理があります。どちらを前(後)にするのか一悶着あったことが想像されますが、神田が古くから鎮座している林に敬意を表して本殿から遠い位置にしたのでしょう。
この写真には写っていませんが、左に「林の社務所」があります。「神田の社務所」は麓にありますから、千鹿頭神社の総てが分かれていて、それぞれの地区がそれぞれの拝殿で、それぞれの本殿を拝礼する形を取っていることになります。
塩尻峠の向こうから来た者にとっては、「本殿前の(見苦しい)電柱は神田側に寄っているので、街灯の電気代は神田側が負担しているのだろうか」「両地区の人口による神社維持費は格差があるはず」「御柱祭は同じ日なので、どちらが祭りを仕切るのか」などと、一々野次馬的な心配をしてしまいます。
御柱だけは両社殿を(共通として)四本で囲む形式でした。
建てる(休める)のは「両地区力を合わせて」ではなく、神田が「一・四」・林が「二・三」と、それぞれが「自分の地区で用材を調達して建てる」という分業制を取っていることがわかります。
本殿の後方に、何かの意志を持って遠ざけたとしか思えない木祠と石祠が並んでいます。「御柱を建てるのに邪魔だから」とも思いましたが、それにしても離れ過ぎています。
両祠を観察しますが、石祠に「享保十四巳酉年・十一月朔日 立・林村中」とあるだけで、祭神や社名の手掛かりになるものがまったくないので「謎の祠」となりました。
林口から麓に下ると、山辺歴史研究会・里山辺公民館が設置した案内板があります。
先の宮(まづのみや) 祭神は大己貴神命(大国主命)
服神(はらかみ) 祭神は建御名方命(昔鎮守神として尊崇した)
王子稲荷 祭神は蒼稲魂命 林城より深志城へ、そして千鹿頭へ移祀された。
宿世結神(しゅくせむすびのかみ) 林六郎公の息女のうらこ姫と言う。
「先の宮は尾根先・王子稲荷は本殿左の八王子社・宿世結神は麓」とわかっているので、謎の祠の一社は「服社」となりました。
尾根上に先ノ宮があります。ところが、不思議なことに、かなり離れた尾根の突端に『千鹿頭神社先宮の由来』とある案内板があります。
取りあえず「かっては『先ノ宮』と呼ばれ…当社も当時の面影を伝えるものは数個の残存する《礎石》のみである…」を抜粋してみました。
しかし、案内板脇にある礎石は、先ノ宮とは余りにも距離を置き過ぎています。「双方に関連性は無いのでは」との感想を持ちながら、自宅へ戻りました。
案内板の文字や写真を挙げてきましたが、享保18年(1733) 編纂という『諏訪藩主手元絵図』を用意しました。
この絵図では茶線が藩境なので、一社を「松本領林村ノ宮」と書いていますが、「千鹿頭大明神」は高島(諏訪)藩内ということになります。しかし、「それはまずいんじゃないか」として眺めると、波形の藩境は尾根を高島藩側から見た形状と理解できます。つまり、先ノ宮と同じく尾根上に鎮座する神社ですから、このような描き方でも間違いではないということになりました。
長文になったので、「千鹿頭神社考(文献から見た千鹿頭神社)」は別ページとしました。興味のある方は以下のリンクでご覧ください。