この鳥居まで続く道が流鏑馬ができるほど長く、途中には大木が一本ある(残っている)ので、かつてはケヤキ並木の長い参道であったと思われます。後述となりますが、参拝時には知らなかった「武田信玄公神願の綱」とあるのが、鳥居の背後に見える注連縄です。
案内板(由緒書)がありませんが、拝殿内の掲額に、右から「応神天皇・神功皇后・玉依比売命」と書いてあります。
応神天皇の横に小文字で「八幡宮」と添え書きがあるので、宮川神社は八幡様となりそうです。定紋幕は、五七の桐と(数えていませんが)16花弁の菊でした。
写真は本殿ですが、鬼板の神紋は五七の桐でした。
由緒がわからないので、ネットで探しました。上田城南地域協議会『城南地域の自然的・歴史的資源のまとめ』とあるPDF文書が唯一のものでした。
試しに、ここにある「武田信玄神願の綱」で検索すると、blog『信州小諸通信』に〔宮川神社・信玄心願の綱〕がありました。神と心の違いがありますが、〔宮川神社の由来〕が載っています。文末に「平成19年9月 宮川神社」とあるので、この由緒書が境内のどこかにあった可能性が出てきました。今さら再訪できないので、ここから転載しました。
一枚だけ撮っていた前出(鳥居)の写真を拡大したら、小さいながらも人型(ひとがた)の御幣が12枚確認できました。
画質は落ちますが、強制拡大したものを添えました。
「神願」を調べて“神の願い”とわかりましたから、「武田信玄神願の綱」は「心願」が正しい用法でしょう。ただし、古来から伝わってきた言葉とすれば、とやかくは言えません。ここで思い起こしたのが、かつて諏訪大社上社前宮にあった「神願門」です。生き神であった大祝屋敷の門ですから、まさに「神願門」と納得しました。