信濃国二之宮「小野神社」の参道入口にある案内板から、関係する部分を抜き書きしました。
案内板にある御鉾様は、落ち葉と雪に埋もれていました。左右に並んだ石祠は、後の調べで「水神社・風神社」とわかりました。
塩尻市教育委員会では「方形で中央に孔があいている」としているので、下の基台状のものが「御鉾様」になります。
この時は「小野神社の根本に繋がる石造物かもしれない」と興味津々でしたが、案内板の解説がすべてという現状では、「これが御鉾様か」とうなずくしかありませんでした。
上から見下ろした写真を見ると、丸石と本体の間に少しの隙間があります。これは凍上の繰り返しで、中にたまったゴミなどで浮いたためでしょう。そのために、孔の大きさが、丸石の基部と同じであることがわかります。
こうなると、「この石(孔)に鉾を立て」との説明では、かなり太い柄でないと、傾いて今にも外れそうという姿しか浮かんできません。加工が雑な丸石は単なる蓋で、かつてはこの穴に何かが立っていたと思えてきます。
北小野地区誌編纂会『北小野地区誌』から、〔小野神社〕の一部を抜粋しました。
ここに、「お墓または遺跡」としての伝承を紹介しています。
ここでは、孔ではなく「祭祀者は、丸石の上に鉾柄を置(突)いて」と読めます。博士の見解をどう捉えて表現したかで大きな違いが出たことになりますが、どちらが正しいのでしょうか。
神戸千之著『信濃国二之宮 小野神社の研究』に、小野神社を分割する際に、「矢彦神社に若宮八幡社・御佐口神の石棒を譲渡し、神代鉾一本を別け与えた」とする話があります。この中の「御左口神の石棒」に注目しました。
御左口神は小野神社創成に関わる神と思われますが、すでに人格神(建御名方命など)が全盛の時代ですから(必要ないと)手放したのでしょう。その石棒が、かつての社地の中央となる御鉾様の瑞垣内に祀られていたと考えれば、すべてが符合します。
つまり、(現在)御鉾様と称している方形の石は、石棒が安置してあった基台ということになります。当然ながら、神代鉾とは直接には関係ないことになります。この流れで、御鉾様には不敬にも当たる大胆な変遷を挙げてみました。
御佐口神の石棒が祀られていた。
↓ 石棒を譲渡した。
↓ 安置していた穴に、蓋として丸石を差し込んだ。
↓ 記録や伝承がないので、磐座と見るようになった。
穴に鉾を立てた・丸石に鉾を置いて神事を行ったと考えた。
私とすれば気に入った流れになりましたが、自由奔放に解釈したことで、「不敬罪に処す」と祟られてしまうのではないかと心配になりました。しかし、御佐口神の存在をアピールしたことで帳消しになると都合よく考え、これを「まとめ」としました。