「国指定重要文化財」に惹かれて大山田神社を訪れました。見納めとして気軽にシャッターを押したのが下の写真です。
自宅で見ると、このサイト一押しの写真が撮れていました。大山田神社の公式サイトがあればぜひ使って欲しいと自画自賛ですが、功労者は5月初めの季節と時間でしょうか。
境内の案内板から抜粋しました。
覆屋内に三棟の本殿があるので、個別に紹介することにしました。
覆屋内の中央に位置しているのが、「大巳貴命(大国主命)」を祭神とする大山田神社の本殿です。社殿の説明に「(江戸時代中期)一間社流造」とあるように、比較的新しいので文化財の指定はありません。
そのためか、案内板には大文字で書かれた大山田神社ですが、[神社の沿革・歴史]には「下条氏以来潜めていた式内社大山田神社の社名復活を行い」としか書いてありません。
大山田神社本殿の左側にある重文「八郎明神社」です。案内板では「領主下条氏はここに正八幡宮と諏訪明神宮を祀り一族の氏神とした。(中略) 寛永年間風倒木のため、八郎明神社殿が損傷を受ける…」と説明していますから、寛永年間に諏訪明神が八郎明神に“変神”していたことになります。
本殿の蟇股(かえるまた)が諏訪明神縁(ゆかり)の「鷹に梶」であることから、社殿が諏訪明神社として造られたのは明らかです。そのため、諏訪から来た私は「なぜ、諏訪明神社が八郎明神社に代わったの。諏訪明神社はどこへ行ったの」と疑問を持ってしまいました。
こちらも重文の「八幡宮社」で、大山田神社の右隣にあります。斗栱(ときょう)などに朱が残っているので、かつては彩色されていたことがわかります。蟇股は八幡様に多い「鳩に橘」でした。
同一棟梁が造ったとされる古城(ふるじょう)八幡社の蟇股と瓜二つですから、“八幡様で間違いない”でしょう。隣の「諏訪明神社→八郎明神社」の例もあるので、このように書いてしまいました。
舞屋の造りにも見えますが、古絵図には拝殿と書かれているので拝殿としました。
上を仰いで、梁に懸けられた奉納額に目を奪われました。
村文化財の「八幡宮八郎明神御祭礼之図(レプリカ)」を始め多くの「絵」がありますが、「金的(中)」の「文字」も各所に見られます。金的を射止めた人の名前・流派・年月日が書かれている額だけを拾い読みしてみると、文化・文政・宝暦などの元号が見えますが、いずれも8月15日です。強弓の名手で知られた「鎮西八郎為朝」が八郎明神社の祭神なので、その日を例祭として盛んに奉納弓射が行われたのでしょう。
重要文化財の見学が目的だったので、予備知識が全くない状態で大山田神社まで来ました。案内板の記述にやや疑問が残ったものの、古社のたたずまいには十分堪能できました。
下條村観光協会のサイトに「ギョウド獅子舞は、10月第2日曜日」とあります。例祭日なら社殿の全景写真が撮れると駆けつけましたが、覆屋の格子戸は閉まったままで、希望的観測の午後から始まるという気配すらありません。社務所にいたお年寄りに確かめると、翌日の「体育の日(11日)」でした。何年間も無更新という業者丸投げのサイトにはよくある…、と社前でグチっても始まりません。
祭り見物ができないのなら地元ならではの情報を、と例祭の準備で開放された社務所の縁側に座りっぱなしのお年寄りに尋ねてみました。神社総代を務めたという男性ですが、「八郎明神社は諏訪社だったのでは」との問いは、即座に「八郎明神社は昔から八郎明神社社」と否定されてしまいました。
自宅に帰ってから改めてチェックすると、「下條村」を始めすべての公式サイトが「10月第2日曜日」でした。村民誰もが知っている内輪の祭りだから、ということでしょう。
長野県教育委員会『歴史の道調査報告書』の記述です。
別の神社で祀られていた大国主命を、「式内社・大山田神社の主祭神」として迎え入れたことになります。この時に京都の吉田家で「式内社」の承認を受けたそうですから、ヨソ者の私は、つい「式内社の沙汰も◯次第」と思ってしまいました。
延享元年(1744)とある『伊那郡神社仏閣記』から〔鎮西村〕です。
一、本社 大己貴命 是社大山田神社也、神名帳に伊奈郡二社の内
一、諏訪大明神 この時代では諏訪社は健在で、為朝社は末社扱いです。
以下に、下條村と県教委の“見解”を転載しました。
長野県『長野県史』がズラーッと並んでいます。大山田神社は国の重要文化財ですから、その一冊である『美術建築資料』を開くと、目論見通りに〔大山田神社〕がありました。その図録から、「寛政3年(1791)」とある絵図の一部を転載しました。
これを基にして、未完成に終わった「新造立之図」と現在の社殿位置から「諏方大明神本殿変遷図」を作ってみました。
この変遷の経緯を補足するために、同書の解説文も転載しました。
これで、大山田神社の本殿に諏訪明神が合祀されていることになりますが、“現実”にはその形跡はありません。それはともかく、「八郎明神社の社殿は、かつての諏訪社」という私の推理が裏打ちできました。しかし、案内板を深読みしただけなので鼻を高くすることはできません。それにしても、諏訪明神はどこを彷徨(さまよ)っているのでしょうか。
天保年間に描かれた「八幡宮八郎明神御祭礼之図」を見ると、境内の左側が現在と同じ配置で描いてあることに気が付きました。改めて寛政の古絵図を参照すると、上写真では右端(最奥)の社殿の右辺りに八郎明神社が描いてあります。現在あるその社殿は空き屋になっていますから、桁間三尺七寸とある八郎明神社の覆屋だったことが考えられます。かつてはこの中に八郎明神社を安置してあったとして、「旧八郎明神社覆屋」と書き入れました。