信濃国二之宮「小野神社」の拝殿へ向かう参道脇に、「天神社・宗像(むなかた)社・子安社・稲荷社」が四棟並んでいます。誰も振り向かない(であろう)境内社ですが、その前に並んだ灯籠の銘文を読んでみました。左は「天満宮」なので背後の天神社に奉納とわかりますが、右の二つは「奉燈小野太社」と「判読不明」なので、境内社とは直接には関係ないようです。
中央の灯籠は目測で約160センチでしょうか。安山岩製と思われる石質とあって、火袋だけは後補の新しいものになっています。元号を確認すると「文政五年(1822)」ですが、「志誠主當社 神子織江」「奉燈小野太社」に注目しました。
「志誠主」も読み慣れない言葉ですが、それより神子の「織江」さんが気になります。私がイメージするところの巫女は「清く気高く凛とした若い女性」ですから、彼女に「織江」という具体的な名前があることで、どうしてもアイドル的な顔姿を想像してしまいます。「石灯籠の名前にトキメキを感じた」などと言えば人には馬鹿にされるのがオチですが、…気になります。
石に刻まれた名前だけでは、私にとっては「想像上の憧れの女(ひと)」で終わっていましたが、本の中で再会することができました。神戸千之著『信濃國二之宮小野神社の研究』に「小野神社の巫女」の章があります。
同じく「小野郷南方北方に分割」から抜粋しました。
神戸さんは「三重・四重は、巫女二重市の土地」としています。ところが、これらは「分割書」の項目では「役職・どこそこの誰」に当たりますから、「一重から四重まで、四人の巫女」とするほうが自然です。この解釈では、南方(矢彦神社)に譲渡したのが「三重・四重」ですから、北方(小野神社)に残ったのが「一重・二重」ということになります。
前出の章「小野神社の巫女」に「織江は二重市の養子で共に女性である」とある件(くだり)があります。「巫女(独身女性)の世襲」なので「養子」には違いありませんが、やはり、役職「一重」の巫女名が「織江」としたほうが(私には)スッキリします。
「諏訪神社上社」では、明治までは、世襲の巫女「八乙女」がいました。その巫女を束ねる頭(かしら)が「大市(おおいち)」ですから、小野神社にも「市」がいたのは間違いありません。そのため、中世(分割前)の小野神社には各祭神に仕える(読み方はわかりませんが)「一重から四重」までの巫女の集団(正・副二名程度)があって、その長が「市の織江」であったと考えます。しかし、総合的に文献を確認・参照することができない立場では疑問を投げかけることしかできません。
いずれにしても、(便宜上の)「小野大祝」さえも(文献上では)持ち得ない「免税地」を所有するほどの役職ですから、「卑弥呼」のような存在を思ってしまいます。ところが、一旦は御簾越しにシルエットがうかがえたかに見えた「織江さん」ですが、「巫女に関する古文書は、織江以降発見できないから断絶したとみたい」と書いてあるので、再び石に書かれた「織江」に戻ってしまいました。
灯籠の建立年が「文政五年」であることを思い出しました。明治維新の62年前に当たりますから、灯籠を一基を建てることができる財力からも、巫女名「織江」は明治初年まで世襲されていたことは間違いありません。