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神明神社の「お腰掛」 山梨県韮崎市穂坂町三ツ沢

 ネットで「韮崎市/神社」のキーワードで検索したところ、Blog『知ってるけ〜、村の鎮守』に、標題の「お腰掛」を見つけました。諏訪の「御柱」も見方によっては怪しげな柱ですが、それを見慣れている私でも、その奇怪な形に目を見張りました。

 韮崎市誌編集委員会『韮崎市誌 下巻』にある〔祭りの庭〕には、以下のように書かれています。

(前略) 現在でも全国各地に大神神社とか諏訪大社などのように本殿をもたない神社があるが、市内においても「山神社・神明神社・大六天社」などは「お腰掛」と称して木の枠組だけであり、その他にも大石だけで本殿のない神社があるが、これらはみな古い祭祀跡の名残かそれにまつわる信仰からであろう。

神明神社参拝 21.5.13

三ツ沢神明神社

 これが、旧三ツ沢村の神明神社です。拝殿の左側が正面に当たるので、本殿の代わりがお腰掛とわかります。

三ツ沢神明神社「お腰掛」 上写真では奥に当たる左側から撮ったお腰掛です。その造りは、…これは写真を見てもらう方が早いでしょうか。
 貫で堅固に組んであるので、朽ちるまでこの姿が保たれると思われます。


お腰掛 木枠の中央に、石棒と言うより縦長の石が三本ほど寄り添うように立っていますが、これが本来の姿なのかはわかりません。
 枠で囲う意味を考えると、土または地面を御神体と考えたほうが合理的だからです。いずれにしても、初めて見たこの景観には圧倒されました。

神明神社跡 同じ道を戻ると、往時とは目線が逆になったせいか、道脇に怪しげな石が並んでいることに気が付きました。神明神社からは、100mほど離れた樹下です。
 この写真では、最奥の黒い碑に「神明神社」と彫られていました。

路傍のお腰掛

山神のお腰掛(?) 神明神社からの帰途で、道脇の祠にお腰掛があるのに気が付きました。往路は「何だろう」で済ませていましたが、“本物”を見た直後ですから、お腰掛の簡易版にも見えます。
 基台に「文化九…/十日 當村中」と読めますが、それだけなので社名も祭神も不詳となりました。

お腰掛は社宮神

 前出の『韮崎市誌』にある〔神明神社〕を転載しました。

 明治になって社名を(神明神社に)変更したが、もとは社宮神といい、村明細帳には年により山宮神、生宮神、または社記には斉宮神などと書かれている。
 『甲斐国志』によると「一、社宮神 社記曰く。土の祖埴安姫を祀る。祠なし。社地に大なる枠を置きて御腰掛と称す。祭日は八朔なり。田面の祭りと言う。神子神楽あり」とある。

 社宮神に神明神社を合併させてから、社名を「神明神社」に変更したことになります。国の指針で村社として登録する際に、社宮神よりメジャーな神明神社で届けたほうが受理されやすいと考えたのでしょう。
 また、社宮神には「山宮神・生宮神・斉宮神社」の別称があることから、山ノ神と(諏訪で言う)「ミシャグジ」が習合した神社とも考えられます。

神明神社

 神明神社は、同書の「朝穂堰(ちょうほぜき)」開削の文から、享保三(1718)年に、その成功を祈って三ツ沢が勧請したことがわかりました。

…特に風越穴掘抜きは難工事で「工事中絶のときは総代十五名を磔刑に処す」などの問題もあったが、三村は一層団結を固め、三之蔵で大六天社、宮久保は鳥居原へ虚空蔵菩薩、三ツ沢では楯無原へ神明社、三村連合で風越穴出口へ虚空蔵菩薩をそれぞれ勧請し、神仏の加護を求めるとともに村民総出で作業に当たり…
韮崎市誌編纂専門委員会『韮崎市誌』〔水利〕から「朝穂堰」

 これで、前出の「黒い碑に神明神社」が「神明神社の旧鎮座地」だったことがわかりました。