「純粋に」と言うか、先入観がまったくない状況下での神名火山(かんなびさん)登山でしたから、突如現れた怪しげな「曾枳能夜神社奥宮の跡」に戸惑いました。
自宅に戻ってから、まず「曾枳能夜」をどう読むのか調べました。すると、今は里に下りた曾枳能夜(そきのや)神社で、神名火山の麓にあることを知りました。
神名火山 郡家の東南三里百五十歩なり。高さ百七十五丈、周(めぐ)り十五里六十歩あり。曽支能夜社に坐す伎比佐加美高日子命の社、則ち此の嶺にあり。故に神名火山と云う。
曾枳能夜社 【風土記】に曾致乃夜(そきのやの)社あり、【延喜式】には曾枳能夜神社と記す、斯則(これすなわち)神名火山に座す、伎比佐加美高日子(きひさかみたかひこの)命たり、本社一間半に二間、拝殿二間に三間、祭礼九月九日、
曾枳能夜神社は、『雲陽誌』が書かれた時代では、まだ神名火山にあったことになりました。
「跡」だけ訪れた状態では片手落ち、と長らく気になっていた曾枳能夜神社の社前に立つことができました。思えば、9年も経っていました。
写真右にある『御由緒略記』には〔合殿 熊野神社〕と〔韓國伊太氐奉(からくにいだてほ)神社〕が並記してありますが、両社ともこの地へ遷座したとあるので、〔曾枳能夜神社〕のみを抜粋しました。
読み終わって振り返れば日本のどこにでもある初夏の風景ですが、(案内板から知った)「ここが伎比佐の里」と思えば感慨が湧いてきます。その緑の中を遠近法に則って続く道路がまぶしく目に入ってきます。
気温が上がって蒸し暑さが増す中、石段から二ノ鳥居をくぐると、境内の木漏れ日に一息付けました。左が曾枳能夜神社の拝殿で、後方が出雲大神社です。
すべての社殿が一新されており、それに伴って整備されたのか、柴垣が好ましく映ります。
不思議なのが本殿で、大社造ではありません。後方に見える境内社の造りが基本で、それに渡殿を連結した形です。出雲では諏訪神社でさえ大社造でしたから、曾枳能夜神社は何か異質な神社なのだろうかとも思ってしまいました。
境内の端・拝殿の前方という場所に、案内板に「神魂伊能知奴志之命」とある磐座があります。
「氏神 伎比佐加美高比古之命の御祖神(みおや)にして延命長寿の神なり、出雲大社遙拝の岩盤(いわくら)と伝う」と説明していますが、神さびた本体と新しい基台がミスマッチで、私には珍座している大石のように見えました。
「遙拝の岩盤」とあるので、その方向が出雲大社になると考えました。しかし、右の神号板も「神魂伊能知奴志之命」ですから、岩盤(磐座)が御神体となります。遙拝の岩盤と御神体の岩盤ではまったく異なりますが、どちらかを選べと言われれば、伝承を無視して御神体と考えることになります。結局は双方に配慮し、頭を下げるだけにしました。
これを書いている中で調べると、神魂伊能知奴志之命社(命主社)は、出雲大社の東に鎮座する境外摂社でした。つまり、(総合的に読んで)「この岩盤に拝礼すれば、出雲大社と神魂伊能知奴志之命社を遙拝したことになる」と理解しました。そのために、同じ読みでも、「磐座ではないよ」ということで「岩盤」を用いたとしました。
「神魂伊能知奴志之命」については、この場で「かんむすびいのちぬしのみこと」と読みを披露しました。「伎比佐加美高比古之命」は冒頭の案内板にふりがながありましたが、覚えていたでしょうか。