住吉神社の「鎌打ち神事」は日室諏訪神社と同日同時刻なので、今回は諏訪神社を優先しました。同じ中能登町の鎌宮諏訪神社の神事が4時開始なので、日室から中能登に向かう前に、神事後になりますが住吉神社を参拝することにしました。
地図から住所「藤井」を拾ったので、該当する「鳥居の凡例」は現地では菅原神社でした。カーナビで住吉神社をチェックしても載っていませんから、万が一と持参した地図から、名無しの鳥居を順に追うことにしました。
首尾よく「住吉神社」です。しかし、社殿の周囲から境外まで範囲を広げても「鎌」はどこにもありません。中能登町は県道とバイパスが通っているので、「七尾街道」はマイペースで走ることができます。しかし、旧街道とあって、枝道に入ると車ではすれ違いが難しい箇所があり、すでに大汗と冷や汗をかいていました。そこで、住吉神社の駐車場をベースにし、歩いて探すことにしました。
前方から児童の歓声が聞こえてきます。小学校のプールとわかったそこから伝わってくる匂いに塩素を感じると、私は一気に小学生に戻ってしまいました。はしゃぐ姿に自分を重ねると、はばかることなく大声を出すことができた昔がよみがえってきます。この一時(いっとき)は暑さが遠のきましたが、再び感じ始めた汗の不快感は先を急がせます。
この先は(先ほどの)菅原神社ではないかという道ですが、折良く男性が近づいてきます。さっそく尋ねてみました。始めは首を傾げていましたが、「今日鎌打ち神事がある…」と補うと、即座に教えてくれました。その具体的な「下の道に戻って5、6軒先」は実際には1ブロック手前の道でしたが、何とか住吉神社の横に出ることができました。
神明造りの鳥居には額がありません。車道まで戻り、社号標でようやく「住吉神社」と確認できました。自宅に戻ってからわかったことですが、二つの住吉神社は600mしか離れていません。合併前の旧村にあった両住吉神社が「たまたま隣り合っていた」ということでしょう。
「案内板」があります。具体的な内容が書かれているので、神事を参観できなかったこともあって「そのまま」を紹介します。神木は、上写真では案内板の奥です。黒つぶれしていますが、梯子が掛かっている木なので場所だけはわかると思います。
本殿側から見たタブの神木です。まだアルミ製の梯子が立て掛けてあり、工事用の組立式ながら階段と床付きの枠が残っています。この祭り用に揃えたのかもしれません。
逆光なのでややハレーションを起こしていますが、鎌の様子がわかりやすいのでこの写真を選びました。幹にコケが生えているのは樹勢が衰えている証拠です。「鎌を打ちすぎて」なのかはわかりませんが、心配です。
上の二丁が午前の神事で打ち込まれた鎌です。刃先の形状から見ると左利き用ですから、「案内板では、建御名方命は左利き」となります。それを言うより、人間と同じ仕様ではまずい(畏れ多い)として逆にしたのでしょう。サカキに隠れて見えませんが、奥が本殿の覆屋です。
まとまって逆に打ち込んである場所があります。丸柄の形状では、上写真のような打ち込みは無理ですから、あくまで“このやり方”仕様で作ったと思われます。
諏訪大社の薙鎌も古いものでは逆の形がありますから、一世代前のものかもしれません。それとも、日照りが続いた年は、逆に風→雨を呼ぶように、この鎌・この方法・この場所に打ち込んだのかも知れません。今日は石川県の文化財担当者が調査に来ていると聞きましたが、専門家はまだ宴会(直会)中なので訊くことはできませんでした。
住吉神社と諏訪神社の関係がわからないので調べてみました。住吉神社の祭神は「筒男(つつお)命:大山咋(くい)神・天照大神・健御名方神」とあり、ここから東へ150mの地にあった諏訪神社(健御名方神)が、明治40年に住吉神社へ合祀されたことがわかりました。そうなると、現在鎌打ち神事が行われている「タブの木」は、その時以来の神木となります。また、現行の「鎌の柄を打ち込む」方式は平成元年から始まったとありますが、「なぜそうした」のかは書いてありませんでした。
竹村美幸著『諏訪明神』に興味深いことが載っていました。
現地では全く意識しなかったのですが、改めて地図を開くと上の通りでした。
国土地理院の地図から等高線を追うと、住吉神社は海抜45m、鎌宮諏訪神社は、何と5mでした。参考までに挙げると、両神社の直線距離は3.8Kmです。「邑知潟」も一部残っており、こちらは海抜0mでした。諏訪湖を挟んだ諏訪大社の上社・下社にも似て、「どちらが先」と考えてしまいました。