信濃史料刊行会『新編 信濃史料叢書』に、菅江真澄の紀行文『来目路の橋(くめじのはし)』が収録してあります。
天明4年(1784)の7月3日には、塩尻市洗馬(せば)から松本市山辺(やまべ)「兎川寺(とせんじ)」を経て「山辺の湯」に行く道中で、現在の須々岐水神社に詣でたことが書かれています。
文中に「もろつまの薄」の記述があり、よほど珍しかったのか、本人が描いた「薄明神」の挿絵まであります。絵まで見てしまえば、これはもうそのススキを見に行くしかありません。
以下に、「薄大明神」のさわりを、原文を損ねない程度(ひらがなを漢字)に書き換えて転載しました。
ここで、いきなり聖徳太子(厩戸皇子)が登場しますが、この後は「彼が美ヶ原の山中で出会った山賎(やましず)が素戔嗚尊」と続き、以下の「薄宮大明神のご神体」に繋がります。
『信濃史料叢書』は、『信府統記』(1724年)も収録してあります。〔松本領諸社記〕から、〈山家(やまべ)与〉の「薄宮大明神」を転載しました。
菅江真澄より60年前という時代差がありますが、ここでは「薄宮の左にもろつまの薄」ではなく「諏訪明神を祀る社の跡があり、その傍らに片葉の薄がある」としています。表現が“微妙”に異なっていますが、『信府統記』は公文書なので、こちらを重視すべきでしょうか。
片葉のススキ
須々岐水神社は「お船祭り」や「御柱祭」で知られているので、それに関連したブログやサイトは多くあります。その状況下では私が必要とする「ススキ」の情報は極めて乏しいのですが、それでも「片葉のススキは健在」とわかりました。
旧里山辺村の中枢部である地域には、古いところでは積石塚である「針塚古墳」や「兎川寺」、“中所”では旧山辺学校が「山辺学校民俗資料館」として、新しいのは(何の施設か不明の)「松本市教育文化センター」などがあります。その駐車場に車を置いて、須々岐水神社へ向かいました。
「薄宮大神」とある鳥居をくぐってから、須々岐水神社の拝殿の左右に御柱が建っていることに気がつきました。「須々岐水神社はお船祭り」の先入観があったので、御柱祭があることをコロッと忘れていました。5月に建てたばかりなのでまだ白木でした。
塀の一ヶ所に、諏訪で言う「注連掛鳥居(しめかけとりい)」に似たものがあります。本殿拝観用とは思えませんから、立ち寄り参拝者では首をかしげるしかありません。
比較的新しい構造物なので、かつては木製だったと思われます。その場所柄から、不明門(あかずのもん)としてみました。
拝殿と本殿の大棟に、諏訪社の証である神紋「立ち梶の葉」が見えます。
案内板では「鎌倉時代に祭神が建御名方命・素戔嗚命と改められた」とありますが、現在もそのままなのでしょうか。本殿の鬼板と大棟の神紋が立ち梶の葉なので、それを見る限りでは諏訪一色です。本殿正面の蟇股は微妙ですが、これも梶の葉でしょう。
須々岐水神社より「片葉のススキ」が気になります。しかし、境内を見回してもそれらしきものはありません。
ようやく、社務所の横に、注連縄で囲われた形ばかりのススキを見つけました。
「天然記念物にも匹敵か」と期待していたのですが、一本ずつ確認しても「ことススキ」でした。「片」葉になる要因の一つは強風とあるので、元々から変異種ではなかったのかもしれません。
「片葉のススキ」については、「祭神が、薄川の上流・大明神平からこの地へススキ(の舟)に乗って来られたが、川底でススキの葉がこすれ片葉になった」という伝承があります。
しかし、「その舟のススキが根付いたが、成長しても片葉のままだった」という後日談がないので、中途半端な話になっています。
須々岐水神社境内の真後ろから道一本隔てた場所に生け垣があり、大きな石碑の頭が覗いています。
その立地から「須々岐水神社歴代神司(宮司)の奥津城(おくつき)ではないか」と直感していたので、寄ってみました。
写真にも見える大きな墓石に「藤原◯◯彦神霊」の文字があります。各地の神社で目にした古い墓碑銘がすべて藤原でしたから、神主の正式名は「藤原姓」になるのでしょう。その文字と共に(家族の)「上條」の名が多く見られます。やはり、歴代宮司家の墓地でした。
今から、二百二十年余り前に、菅江真澄が須々岐水神社の縁起を伺った上条権頭(上條権頭義高)さんもここに眠っているのでしょうか。生け垣の外からは「権頭」の文字は見つかりませんでした。
山辺は、延暦年代の古文献にも「高句麗からの渡来人が須須岐の姓を賜った」と載っているほど古い歴史を持っています。今回、前から気になっていた(渡来系の墓と言われる)積石塚「針塚古墳」も見学できました。“あの有名な道祖神”も気になりますが、今回は諏訪神社二社を参拝して諏訪に戻りました。
須々岐水神社の近くに「古宮」があるという情報を得ていたので、これは必見と行ってみました。
ところが、案内板の文字が風化していて「薄」一文字が読めるだけです。『信府統記』では「祭神が初めに上陸したこの地(薄畑)で態勢を整えてから薄宮を造った」ということですから、かつては、ここに「片葉のススキ」が生い茂っていたと想像してみましたが…。
それは別としても、ここはなかなか伝承にマッチした景観なので、祠の右に薄川の上流を半分入れる構図にしてみました。最奥の山は美ヶ原の「王ヶ鼻」だと思いますが、自信はありません。
ネットで2008年の日付がある「案内板の写真」を見つけたので、テキストに替えてみました。
代わって、小口伊乙著『土俗から見た信濃小社考』から〔水神様〕の一部を転載しました。
図書館で何気なく手にした冊子『長野県民俗の会 第35号』ですが、表紙に並んだタイトルの一つ「須々岐水神社の御柱祭」に目が留まりました。ページを開くと、太田真理さんの名がありました。
〔三 須々岐水神社について〕から、「上條家に伝わる資料や神社にまつわる伝承を、現宮司の先々代がまとめ記したものである」と注釈にある由緒のみを転載しました。原文はカタカナですが、読みやすいように句読点と(ふりがな・注釈)を加えました。
ここで、薄大明神の御詠歌「ほや野」が、御射山の「穂屋野」に重なります。そうなると、須々岐水神社にも「諏訪社と御射山の関係」があることが浮上しますが、他の文献を眺めてもそれを進展させる文言はありません。ただし、須々岐水神社が素戔嗚命と建御名方命の二柱を祀っていることはよく理解できました。
奥社は山峡の温泉「桧の湯」の近くにあることがわかっていましたが、道路事情が悪いこともあって参拝に躊躇していました。最近Googleマップに「須々岐水神社奥社」がピンポイントで表示されていることに気が付き、令和元年の内に(でなくともいいのですが)「須々岐水神社三社参り」を完結させることにしました。
紅葉が始まった山辺の衛星写真を、参拝時より二日後となりますが、11月9日の最新版で用意しました。
須々岐水神社から直線距離で8.3km離れた山峡の温泉「桧の湯」が現れ、取りあえずは、すれ違い困難な道から解放されました。さらにその上を目指すと、林道脇に木枠のようなものが見えます。その上のカーブ外側に駐車場を確保してから徒歩で戻ると、この祠がありました。
台石に銘板「平成三十年…台石改修…」があり、それだけが新しい不思議さが解消しました。
少し離れて、手造り感あふれる鳥居があります。現地で用材を調達したことが想像できますが、その下から凹んだラインが下方に向かっているのが確認できます。かつての、徒歩による参道がまだ残っているのでしょう。
帰り際に、御柱が建っていることに気が付きました。写真を撮り直して事なきを得たのですが、複数の由緒に「祭神/素戔嗚命(すさのおのみこと)」と読めるので複雑な思いです。
ここまで来れば、温泉に浸かって帰るという選択肢があります。しかし、「秋の日はつるべ落とし」に加え、今日は盛りだくさんの予定が詰まっています。今も杉葉で葺かれている三峯社をナビにセットしました。