このサイトで、『小野神社と矢彦神社』と題して、小野郷と神社の分割について書いたのは平成17年でした。その後、有益無益とも各段に増えた知識ですが、その中で、『祝詞段』の「ある記述」に注目しました。ところが、『ウィキペディア』を始め各種文献に載る〔小野神社・矢彦神社〕には、「その記述」のみですが、すでに載っていました。
ここに出る「小野ワヤヒコ」を「小野は矢彦」と読めば、これが矢彦神社の名が見える最古の文献となります。しかし、各書で挙げている「小野ワヤヒコ…」ですが、何れも紹介のみで終わっています。
『諏訪史料叢書 第二巻』には、「嘉禎三年(1237)」の奥書がある、前出の『祝詞段』・『諸神勧請段』・『根元記 下』が収められています。これらは、今から770年余りも前に、口伝の祝詞(諸神を勧請する神楽歌)を文字に書き留めたものです。
この三書から、関係する箇所を転載しました。当時の諏訪神社上社の外記太夫・他の名がありますから、伊那ではなく“諏訪の文書”となります。
『祝詞段』 小野ワヤヒコ北方南方末若宮大明神迄ミナトマテキコエテヒサシキ小野ノゴセ小野ノゴセヤ利コノ森ヲトヒヲカノモリ、
『諸神勧請段』 小野ワヤヒコ北方南方スエワカ宮ノ大明神ミナトマキコエテヒサシキ小野ノゴゼオノノゴゼヤ利コノモ利ヲトヒヲカノ森ヨ、
『根元記 下』 小野ワヤヒコ北方南方スエワカ宮ノ大明神神々ノコシミストキワ、
このように三書ともほぼ同じ内容なので、『祝詞段』に絞って全文を載せました。
「小野ワヤヒコ」以下は、現在の諏訪大社下社である「下ノ宮」から始まる段に含まれています。この段は、諏訪の神限定なので、上伊那郡に鎮座する矢彦神社・小野神社が登場するのが不思議です。また、「諏訪大社下社(秋宮・春宮)に次ぐ序列」から、「矢彦神社と小野神社は、諏訪大社下社の二之宮」という位置付けを思ってしまいます。
『祝詞段』とは別に、「延享元年(1744)編纂の原本を筆録したもの」とある『伊那郡神社仏閣記』があります。〔小野村〕の[矢彦大明神]から、神楽歌のみを転載しました。以降は、この神楽歌を『神楽歌』と表記します。
ここに、『祝詞段』では意味不明のフレーズ「ミナトマテキコエテヒサシキ」と酷似したものがあります。『祝詞段』より500年後と新しいのですが、次が同じ「小野…」ですから、こちらが「正伝」としました。口伝えではなく、伝世の歌詞集があったのでしょうか。
『祝詞段』には「◯◯ノゴセ」が多く登場します。その一つ「タルノゴセ」は「樽の御前──多留姫神社(茅野市)」ですから、ここでは「小野の御前」となります。これが「小野神社」に当てはまりそうですが…。
ここまでを、前出の『神楽歌』を元に、「小野は矢彦」として平仮名で書き直してみました。
両書を並記してみました。
「ヤ利コ」と「矢彦」は同じ母音なので、意味が通る「矢彦」が正しいとしました。次の「モ利」は「森・杜」としましたが、『神楽歌』の「宮」でもおかしくありません。残ったのは、どちらも意味不明な文言です。
「トヒ」と「飛」は、「カタカナ・漢字」の表記の違いとして差し支えないでしょう。末尾の「モリ(森・杜)」と「神」の違いはどちらを使っても意味が通りますから、「飛オカ・飛よれ」さえ解明できれば二方丸く収まることになります。
「飛岡」 「飛オカ」で思いつくのは「飛岡」です。ネットの検索で辰野町に字(あざ)「飛岡」を見つけましたが、小野からは離れ過ぎています。次に「飛岡 地名」で検索すると、サイト『瀬高町の地名の話』に「飛岡」がありました。
矢彦神社の境内が小高いとは言えませんが、「周囲よりとび離れている」が参考になりそうです。しかし、これ以上の進展が見込まれないので、この件は打ち切りました。
その後、気持ちが収まらないので、目を見開いてもボケたままの文字に老眼の進行を実感しながら、再び『祝詞段』に目を通してみました。すると、「湯川ニ子ノ神・柏原子ノ神・トヒ岡子ノ神・中村ニ大法師小法師」(『根元記 下』では「…トヒヲカ…」)を見つけました。茅野市の北山地区にそんな旧村があった記憶がないので、また“ネット大明神”にすがると、サイト『車山高原のリゾートイン レア・メモリー』に〔諏訪を特徴付ける最古といえる北山地区の入会争論〕がありました。
さらに調べると、『信濃史料 第十四巻』に〔芹ヶ澤富岡問答日記(寫)〕として、天正6年(1578)「富岡(諏訪郡)・芹ヶ澤山問答の事は…」がありました。これで、前後の旧村名から「富岡」が「トヒヲカ・トヒ岡」であることが確定しました。しかし、どちらが誤伝かは別として、それを地名として当てはめれば、『神楽歌』との整合性がなくなります。結局は骨折り損となりましたが、「諏訪で最古の山論を知ったと喜ぶべき」と思い改めました。
「飛寄」 「飛よれ」を「飛寄」と変換してはみましたが、如何に大明神であっても見つけてくれませんでした。地名と言うより、状態を表した──例えば「飛んで寄る」のような、次のフレーズ「日は照ると…」に掛けた特異な状況を歌ったものかもしれません。
ここまで“紆余曲折”がありましたが、『神楽歌』の「飛よれの神」を採用した『祝詞段』に書き直してみました。
年月を経て変容した口伝えは、句読点を打つ箇所によって意味が大きく変わります。その危険性をあえて侵し、『祝詞段』の類例(用例)を参考(または無視)しながら「/」で区切ってみました。
『祝詞段』では「上下・南方」があり、いずれも次の神社に掛かっています。これに倣うと「(末)若宮は南と北にある」となります。
ところが、神戸千之著『信濃国二之宮 小野神社の研究』に、「…若宮之社一社矢彦神社へ付申候…」とある〔若宮の譲渡〕を見つけました。これについて調べると、北小野地区誌編纂会『北小野地区誌』に、分割前(嘉禎の頃)は「小野神社には若宮が二社あった」とある記述を見つけました。ここでは、これを「北方南方」としてみました。
以上のことを踏まえた上で、「矢彦神社は(意味不明の)飛よれの神・若宮は二社(北方南方)ある・小野神社はキまで知られている」と読んでみました。
大山鳴動して「小野の諸神を勧請しただけ」という結果になりました。ただ、小野神社(摂社若宮社)と矢彦神社は諏訪神社下社とかなり密接な関係だったということは、しっかりと頭に置いておくことにしました。