「諏訪では」というより「私は」と限定した方が正確かもしれませんが、お盆が終わると「御射山祭」を意識するようになります。
信濃国二之宮とされる小野神社と矢彦神社は、塩尻市に鎮座しています。両神社は境内を接していますが、矢彦神社は「辰野町の飛び地」という珍しい形態で知られています。両社とも、御柱祭は諏訪大社に次ぐという規模で行われていますが、その反面、御射山祭については(私の元には)一向に伝わってきません。果たして現状はどうなのかと、「小野神社 矢彦神社 御射山」の検索ワードで調べると、各一社に一件という少なさで表示しました。
矢彦神社では、長野県魅力発進ブログ『い〜な 上伊那』の【井月さんのこころ 24】を読んでみました。
ここに出る「さなぎ鉾」は、神戸千之著『信濃国二之宮 小野神社の研究』で「…分割に当たり、小野神社の最古の信仰の中心であった御左口神の石棒と、霊魂崇拝の若宮及び神代鉾一本を八彦神社へ譲渡した事に要因があるのである」として知識にありました。その「さなぎ鉾(以下、神代鉾と表記)」が今も御射山祭で使われているということですから、自分の目で見られるチャンスが到来したことになります。
本の写真でしか見たことがない神代鉾には、地元の呼称に「さなぎ鉾」とあるように、諏訪神社(現諏訪大社)上社の湛神事で使われた「サナギの鈴」と同じものとされる「鉄鐸」が付いています。読み進めると、祭礼日が諏訪大社御射山祭の中日「8月27日」に近い土日ということなので、これは見逃せないと見学することにしました。
神事の開始時間が不明なので、午後1時と踏んで早めの12時に着いたのですが、御射山は普段のままでした。
ここへは諏訪から直接来たので、確実な情報を得るために矢彦神社へ向かいました。境内に入ると、閉じている社務所しか見たことがありませんが、今日はその内外で人の動きがあります。実は、情報不足の中でよくやってしまう勇み足を今回も…、と思ったのですが、それを見て安心しました。
拝殿の掃除をしている若者から「午後3時過ぎ」と聞いたので、駐車場で、途中にあった「たのめ生鮮食品館」(といっても何のことはないAコープ)で購入した、私のお昼の定番であるサンドイッチをかじりました。
少し午後の微睡(まどろ)みをと窓を全開にすれば、御射山祭には付きものの蚊が…。ここは日陰という好条件ですが、細めに開けただけでは体感湿度が一気に上昇し、ただ目をつぶって耐えるだけとなりました。
「いざ御射山祭へ」と、ベースにした墓地の駐車場から、再び御射山に向かいました。途中には「いつの間に」というタイミングで提灯が吊され、参道入口にも幟が立てられていました。
すでに数台の軽トラが駐められ、多くの人が動き回っています。昼前に見たのは白日夢だったのかと思うほどでした。
祭りを斉行するのは地元の人とわかっていたので、「こんにちは」と声を掛けながら人が一番密集している場所へ行き、「神事を見学したいので、よろしくお願いします」と挨拶しました。「アイツ、誰だ」と不審の目を向けられるのを避けるためです。
矢彦神社で「神幸祭」があるというので、女性とお年寄り以外の人は、軽トラの荷台で大きく揺られながら下っていきました。私も同行したかったのですが、さすがに口にできません。残ったお年寄りと四方山話を交わして待ちました。
■ 翌年に見学をした「神幸祭」を、挿入という形で書き加えました。名称がわかっている「(御神体が帰る)還行祭(還幸祭)」に対しての「神幸」と書きましたが、正式な名称ではないかもしれません。
神事前の矢彦神社の拝殿です。「本殿を開扉して神宝を受け取る」と聞いていましたが、壇上には、すでにそれらが置かれていました。
中央の案に幣帛・右に神代鉾・左に弓と矢でした。祭を担当する「當屋(当屋・頭屋)」が輪番制なので、年によって内容が変わるのでしょう。神社側の都合もあるかもしれません。
3時を大きく廻った頃、軽トラックが一台境内に入ってきました。降りた4人の後について拝殿へ向かいます。
神事前の微妙な時間とあってタイミングが取れません。やや強引になりましたが、神職と当屋の一人に「神事の見学」を伝えました。彼らは御射山社での準備の最中に下ってくるので、そのままの服装です。その後に立ちました。
修祓から始まり、玉串奉奠、宮司一拝で終わりました。
神職から、神宝を順に受け取ります。写真は神代鉾です。
矢彦神社の宮司は女性です。余談ですが、去年、例大祭で正装した宮司を見て、思わず卑弥呼を連想してしまいました。
写真に写っている拝殿前のソヨゴの大枝一対も軽トラックの荷台に運びます。
一時雨がぱらついたので、鉾をシートで覆います。
御射山社へ帰る軽トラを見送ってから、自宅に戻りました。
戻ってきた車から、矢彦神社の本殿から遷した神代鉾・弓・矢が下ろされ、送迎用と思われる唯一の乗用車から女性の宮司が現れました。
なにがしかのセレモニーを期待してカメラを構えていたのですが、神代鉾は“なんとなく”という間合いで鳥居をくぐり、弓と矢が続き、それらは仮宮の中に納められてしまいました。この神代鉾が矢彦明神の御霊代ですから、もう少し勿体ぶって行進した方が…、とは外部からの目です。
宮司が“マニュアル”の写真を見ながら献饌の品をチェックし位置を微調整した後、用意された柏葉に紙垂(しで)を附け玉串を作り始めました。これが当地でのやり方なのでしょう。
神事は修祓から始まる一般的なものでした。仮宮は、写真のように冬青(ソヨゴ)で飾られていますから、「これが御射山祭だ」というような雰囲気はありません。
今日集まっているのは、準備をする「當屋」の人達です。神事の参列者ともなる老若男女の皆さんは、「お頭をお下げください」の言葉がなくても、要所では一斉に頭を垂れます。もう何回も当屋を経験してきたのでしょう。
玉串は柏ですが、去年は柏葉に薄の穂を添えたという話でした。
御射山祭の一切を仕切る集落を「当屋」と呼び、休戸耕地・押野耕地・藤沢耕地が輪番で務めるそうです。さらに、実質的に担当する(当屋内の)隣組も準備と後片付けに分かれるそうですから、かなり複雑です。そのために、正しく継承するのが難しいのでしょう。その玉串を当屋の代表が一人だけ奉奠するという簡素な神事でした。
因みに諏訪大社ではコブシの小枝にススキの穂ですが、矢彦神社で柏を用いる由来は不明です。
今日も天候に恵まれましたが、参道の入口までは夏の日射の洗礼を受けます。汗ばみながらも、「風を秋風と感じるのも御射山祭」と一人頷いて砂利道を進みます。
今日も、まず初めに行ったのは挨拶です。「氏子総代か責任者は」と声を掛けますが、「今はいない」というので、誰ともなくという向きで「今日の見学もよろしくお願いします」と頭を下げました。
前日に仮宮の内部を撮ったのですが、フラッシュを使わなかったために不鮮明でした。そのため、神事前の余裕があるときにと、撮影の許可を頂いてから昇壇しました。
その写真ですが、フラッシュ使用の弊害で何れも同系色に写ってしまったので、“三種の神器”に付箋を付けてみました。
神饌の内容は「年によって違う」と説明を受けましたが、もちろん私にわかるはずはありません。因みに、ススキの束は、直会の時に参列者に配られました。
「いつもより早い」という時間ですが、「全員そろったので」との声で神事が始まりました。宮司の祝詞が御射山の林間に流れます。そのさわやかさに、小野神社の「神子織江」を重ねてしまいました。
神事の合間に無声の時間が流れます。その中で、御射山を吹き抜ける風が梢を揺らす音として感じられました。それが蚊を寄せ付けないのでしょう、ザックの底に忍ばせた長袖シャツですが、出番は一度もありませんででした。
玉串奉奠は、神社総代会会長・小野区長・小野筑区長・山林組合長・三耕地代表・当屋代表と書き留めました。
1時21分に始まった本祭の神事は、約10分という時間で終了しました。
役員や宮司の挨拶が終わると、一人の男性が、仮宮から下げたススキを一本ずつ配り始めました。長いので飲食の邪魔になるのでしょう。これも例年通りということで、各人はごく自然に背中に負い(腰に差し)ました。これで、ようやく御射山祭らしくなりました。
直会の宴が始まったことで、私は、地元民の輪から完全に浮いた存在になってしまいました。その後の神事も見学したかったのですが、いたたまれなくなって、そっと退散しました。
御射山での神事は以上ですが、矢彦神社での神事が見学できなかったので、未完ということになります。
神代鉾に附けられた、諏訪では「サナギの鈴」と呼ばれる鉄鐸ですが、写真のように和紙でくるまれており、その形を直接拝観(観察)することができませんでした。また、例祭時に麻の和幣(にぎて)を一筋加えるそうで、そのフサフサに鉾の形状もわからなくなっています。写真では御簾に隠れて見えませんが、鉾の先端にはススキの穂が附けられていました。
神事の準備中に、お年寄りから「昔はススキで仮宮を作った」との話が出ました。ところが、「それはいつ頃か」と問うと、…言葉が濁ります。結局、その場では、ススキで葺いた仮宮の話は終わりました。
ここで改めて補筆すると、今まで仮宮として紹介してきた木造の社殿は、かつて矢彦神社の式年造営で本殿を建て替えたときに、その「お古」を移築したものだそうです。定紋幕に「大正十年」とありますから、それ以前にこの御射山に移されことがわかります。
そのことから、「恒常的な仮宮」ができたことで、仮宮を造ることがなくなったのが、大正10年頃ということになります。
改めて計算すると、大正10年としても、すでに5+63+27で95年も経過しています。この年数では、すでにススキで葺いた仮宮を誰も見たことがないことがわかりました。
御射山社は仮宮の真後ろに建てられていますから、見た目では、まるで仮宮の「古宮」扱いです。建御名方命を祭神とする諏訪大社の御射山を参考にすると、両社は、横並びか対面とするのが自然です。また、そうすべきでしょう。
しかし、仮宮は矢彦神社の神紋「三つ巴」を染め抜いた定紋幕をまとっています。矢彦神社の正殿に祀られている大己貴命(大国主命)が御射山に狩りに出掛けるという故事がベースですから、ここに建御名方命を持ち出すのは意味がないかもしれません。しかし、御射山の神にお尻を向けては、いかに大己貴命でも(怒りに触れて)獲物を一頭も獲れずに帰ることになるのは必定です。とまー、余所者である私がこれを言っても…。
辰野町誌編纂専門委員会『辰野町誌 近現代編』の〔神社〕から抜粋したものを紹介します。
私は諏訪大社御射山祭との関連から「仮宮」と書きましたが、ここでは「狩宮」と表記しています。しかし、どちらでも意味が通るので、書き直さずにこのまま続けることにしました。
同書の〔矢彦神社〕から、[由緒]の関係する部分を抜粋しました。
ここに登場した「春宮」に戸惑いましたが、よく読むと、春−秋の神事から「春宮−御射山社(秋宮)」の関係と理解できました。