風三郎神社(上伊那郡中川村)を調べる中で、山梨県では八ヶ岳南部の一峰を風の三郎岳と呼んでいることを知りました。また、北杜市(ほくとし)の清里(きよさと)では、風の三郎社を含む「三社参り」が行われていたことも知りました。こうなると、心はすでに清里の地へ飛んで…。
「清里」と言ったほうが通りがよい高根町(たかねちょう)は、私が住む諏訪郡原村からは八ヶ岳の向こう側に位置しています。隣県であっても隣町という関係ですが、八ヶ岳の高嶺に阻まれては“交流”はありません。その高根町は、現在は合併して北杜市(ほくとし)高根町です。
唯一地図に載っていた神社なのでカーナビの行き先に設定し、三社参りのベース地としました。
道脇の鳥居をくぐって石段を登り詰めると、予想外に広い境内の端に立っていました。
神庫と神楽殿は見てわかりますが、大屋根が本殿の覆屋と認識するまでに少しの間が必要でした。背後の斜面には、境内社が並んでいます。
元文5年(1740)建立という本殿の周囲は、通路とも言えるスペースがあります。これが、覆屋を大きくしている理由でした。しかし、本殿を直接拝観できるその場所も、覆屋の腰板で囲まれているので、社殿全体を撮ることができません。下からアオると、何とか紹介できる写真になりました。
鳥井脇にある案内板『高根町指定無形民俗文化財第二号 日吉神社の筒粥の神事』から、「三社参り」の部分を抜粋しました。
「筒粥の神事は現在も行われている」とだけ紹介し、上記を「三社参り」の説明に代えました。
小字「東原」の一軒で、「風の三郎神社はどこ」と尋ねました。しかし、当主の男性は、私を警戒しているかのように「知らない」の一点張りでした。
途方に暮れながら歩みを進めると、集落の外れに畑中へ延びる小道があります。ネットで見ていた概念図のような地図を思い起こすと、それが重なります。
その気配はないままでしたから、不意に鳥居が現れたのを見れば、大げさですが「やったぜ!!」と叫ぶしかありません。額束に「利根神社」が読め、ここだと確信しました。
赤屋根の祠が利根神社です。石垣の形状でわかるように、右側に取って付けたかのように座る祠が風の三郎社でした。
高さ50cm弱の石祠は無銘なので、予備知識がなければ、この前に立っても風の三郎社と知ることはないでしょう。近年に「上原からここに移した」ことも、その存在を薄くしている原因と思われます。
高根町『高根町誌 下巻』〔宗教〕から、「屋敷神と共同で祀る神について」から抜粋しました。
『町誌』の利根川神社と、現地の利根神社の呼称に相違があります。マキの神社なら「利根川神社が正しい」となりますが…。
日吉神社に「ハイキングコース」の標識があります。その道をたどれば八ヶ岳権現社へ行けそうですが、説明がないので車道を歩いて目指しました。
これは、その道中で、諏訪で見馴れた八ヶ岳とは余りにもかけ離れた山容に何枚も撮ってしまった中の一枚です。この時はまったく未知の八ヶ岳権現社でしたが、帰りに振り返って見れば、電柱辺りから斜めに入る「ハイキングコース」の先にありました。
道標「散策路入口五幹の松(雨乞いの松)」の先をたどると、尾根上に、お辞儀したかのような八ヶ岳権現社が鎮座していました。
背後の枝葉の間に八ヶ岳が見え隠れしていますが、どの山のどの部分なのかはわかりません。三社参りが廃れたことで、遙拝地という景観は必要がなくなったのでしょう。
「明和元年(1764)申八月日」と彫られた石祠の向こうが、高根町指定天然記念物「八ヶ岳権現社のマツ」です。
手前にある新しい碑には「風切りの松 風の三郎」とあります。しかし、松が防風林の一本とわかりますが、大文字で並記された「風の三郎」の役割がよくわかりません。
これで、晴天祈願・雨乞い・暴風雨除けのいずれも祈願しない三社参りが完了しました。
風の三郎岳には諸説あって、どの峯なのかは比定できていません。
現地で八ヶ岳連峰を遠望した私は、風の通り道を赤岳と権現岳の最鞍部「キレット(切戸)」と考えました。その向こう諏訪から吹き降ろす偏西風がこの地の人々を悩ませたことが想像できるからです。
ただし、八ヶ岳権現社の手前で撮った写真では、背後に阿弥陀岳南陵が重なって判別できません。調べて、○部をキレットと特定しました。
ここまでに挙げた「風の通り道=キレット」とすれば、赤岳−権現岳の稜線中間に位置する最鞍部に近い小ピークを風の三郎岳と比定できます。
地図で「ツルネ(2562m)」と確認し、風の三郎岳と認定しました。
付録として、ネット上でも引用されている「風の三郎岳」に関わる古文献を紹介します。松平定能編輯(集)『甲斐国志 巻之二十九』〔山川部第十〕からの転載です。
同『巻之六十五』〔神社部第十一〕
大森快庵著『甲斐叢記 巻之七』