諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

筥石社 駒ヶ根市東伊那 大久保

火山峠と筥石社

 Googleマップに表示させた駒ヶ根市周辺を眺めている中で、ふと「火山峠」が浮かびました。四十年以上前に一度だけ通った峠道ですが、「なぜ火山(かざん)なのか」として記憶に残っていました。それ以来調べるまでもない疑問として抱えていましたが、特に優先事案がないのでググってみると、「ひやま」と読むことがわかり謎はあっさりと解消しました。
 ついでにそのルート「県道18号」周辺を探ると、天竜川左岸に「筥石社」があります。難読の「筥」ですが、九州福岡の筥崎宮を知っていましたから「はこいし」と読めました。これは珍社・奇社の類ではないかと投稿写真を見れば、巨大な「陰陽石」があります。…とりあえず、その時が来たら筥石社を参拝することにしました。

筥石社参拝  ’22.8.2

 カーナビが指示した道は途中から(後に、猿岩がある伊那峡と知った)満々と水を湛えた天竜川を見下ろす一車線幅となり、対向車が来ないのを祈るばかりとなりました。
 何事もなく筥石社に到着しましたが、地図で確認すると県道488号の表示がありました。

筥石社

筥石社「箱石」 前を通る道からは普通の神社にしか見えませんが、本殿覆屋の背後にある大岩に気が付けば、なぜ「筥(箱)石社」なのかが納得できます。
 拝礼もそこそこに、境内奥にある「陰陽石→」に従って急斜面を上ります。

筥石社の箱石
蛇顔石(枠内)space本殿覆屋

 側面からは、箱には見えない箱石です。その上に「蛇顔(じゃがん)石」があるのを知ったのは自宅へ戻ってからのことですが、拡大したら、何とか写っていました。
 その上部に至れば木々の間に数個の大石が見え隠れしていますが、この一画だけにあるのが不思議です。

陰陽石

筥石社「陰陽石」 箱石の背後に回り込むと、この光景が現れます。
 遠目では陽石を立石と見たのですが、近寄ると、平石の上に斜めに立て掛けた配置とわかりました。
 この写真では陰石の陰石たるものが判別できないので、アップしたものを用意しました。

筥石社「陰石」 二本の棒が注連縄を支えています。陰石の下部がよく見えるように設置した意図を感じますが、それに間違いないでしょう。
 あくまで人間が見て感じた造形ですが、その「割れ目」がそこにある故に、自然の妙技を思ってしまいます。

筥石社の陰石 その背後ですが、『筥石社縁起』では「奥ノ神でん部(臀部)」とあり「大の箱石も尻に敷かれて安泰」と解説しています。
 草が手前にあってハッキリしませんが、部にモモのような割れ目がありますから、垂らした注連縄を「Tバック」に見立てているのは間違いありません。

筥石社「陽石」 陽石の下部に二条の摺痕が見えます。左方の石とは当たり面が一致しませんから、ある時期に、人間が今見る組み合わせにしたことを考えてしまいます。
 それはともかく、その形状に気が付いたばかりに、ある意味でのリアルさがあることを知ってしまいました。
 その外に様々な名が付いた石がありますが、省略しました。

筥石社周辺の地形

筥石社の地形図
『地理院地図Vector』(陰影起伏図に道路・河川のみを重ねたもの)

 一箇所にまとまって存在する大石は、筥石社の周辺だけに見られます。東側の山は見た限りでは普通の里山ですから、諏訪市の児玉石神社にあるような転石ではありません。この景観を造った要因が天竜川にあることは間違いありませんが、それ以上のことはわかりません。

筥石社由緒

 『駒ヶ根市誌 現代編 下巻』〔宗教〕[主な神社]から転載しました。

 読みやすいように、一部を改変しています。

筥石社(はこいししゃ)
位置 東伊那字(あざ)
祭神 建御名方命・白山姫命・宇賀魂命
旧社格 村社

由緒 文明元己丑(一四六九)年九月二十六日、伊那村諏訪社(現伊那森神社)より分霊を奉持して、大久保村字宮筥石と称した。巨大な岩石に奉斎したが、後、岩石の前に社殿を構築したものと伝える。明治四十一年十二月十一日同村字扇平無格社の稲荷社祭神宇賀魂命、字栗沢無格社駒形社の祭神白山姫命を合祀した。

なお、応永元年(一三九四)二月十五日、赤須為幸が、伊那郡赤須郷の公田総田数を記しているが、その中に「春近公田六反半」とある。これによれば赤須郷には、春近領の公田があり、春近公田と呼ばれ、その公田の四壁の目標に筥石を指している。この赤須郷を確定した境界、四壁の文中に

「赤須郷北ヒガシ(東)ノホンサカイ(本境)、キタワウシロサワ(後澤)ノツル子(ね)ヨリ箱石ヲミアテ(見当)ニソロ(候?)、ヒガシハマタハコイシ(箱石)ヨリナキハゝ(柳羽場)ノホリ(堀)ヒキスヱ(引末)ヲミアテニソロ、(後略)

 右により、嘉暦応永年代には、何等かの形で、筥石社が設けられていたことがわかる。但し文明元年(一四六九)に分霊との件はそのまま承認できない。即ち嘉暦二年(一三二七)に既に六十七年前に書かれていることからも、筥石の祀られた年月は嘉暦二年より古いといわねばならない。

(中略)

 なお、同社境内に巨大な天然の陰陽石があって、古代信仰の対象となり、永年保存され民衆によって信仰されてきた来たものであるが、この種のものでは信州では最大のものといえよう。

 「自由にお持ち帰り下さい」とある『筥石社縁起』には

筥石神社は、昭和28年4月8日神社庁下『筥石社』の名称で長野地方法務局に登記され現在に至る。(以前は社名が「箱石神社」等の記載も多かった)

とあり、明治初期の『長野県町村誌』〔東伊那村〕と〔村絵図〕でも「箱石社」です。『駒ヶ根市誌』の編纂者は「承認できない」と書いていますが、その変遷を「箱石(磐座祭祀)→箱石社(諏訪神社)→箱石社(白山姫命と宇賀魂命を合祀)→筥石社」とすれば問題ないと思いますが…。