創建当時からなのか明治14年調査時の実状なのかは不明ですが、ここでも興波岐命(おきはぎのみこと)が無視されています。こうなると、(本社の主祭神は興波岐命ですが)分社では「新海神社」として勧請しても「祭神は健御名方命・事代主命・誉田別尊」で、これが“新海三社神社”そのものとも思えてきます。
今回は「分社がわかれば本社がわかる」として本社の参拝を最後にしたのですが、何か実状がわかってきたような…。
地図では千曲川が直近ですが、見渡してもそのようなものは見えません。人家がチラホラというそんな道沿いに、新海神社がありました。
額束は「新海宮」です。
不思議というか「佐久では常識」と言うか、ここまでに巡拝した「社宮司神社」を含めた鳥居は、すべて両部鳥居でした。「海」の文字を含んだ地名が極めて多い佐久ですから、何か関係があるのでしょうか。
簡素な拝殿の格子戸から内部を拝観すると、これもまた簡素な本殿がありました。ここで、大棟に鬼面が付帯した本殿と見えたのは、拝殿と直結したこの祠の覆屋とわかりました。
現在見るこの慎ましい旧村社の景観が気になって『長野県町村誌』を調べると、「戸数/本籍39戸但平民・人数(総計)/215口・牛/無之(これなき)・馬/牝馬七頭・車/荷車二両」などとあります。これが明治始めの今井村ですから、何とものどかな村の姿が浮かんできました。
改めて参拝時の状況をまぶたに浮かべてみると、このような小村それぞれが合併を重ねて佐久市となった今日でも当時の村名が字(あざな)と残り、拠り所となった村の鎮守社がこのような形で残っていることが何とも面白く、また不思議に思えてきました。
境内を巡る中で、縦長の祠に異変を感じて近づくと、屋根に穴が空いています。初めは「究極の盃状穴」が頭に浮かびましたが、削痕が荒いので、何か他の目的が考えられます。
内部にあった見えない空洞が長年の凍害で一部が現れ、見苦しいので整形したとも考えました。しかし、意図的に開けたとも思えます。
何か恐ろしい謂われがありそうなので、これ以上、興味半分の詮索をすることは止めました。
流造の石祠が二棟並んだ横に、屋根は(諏訪で言う)籃塔(らんとう)のものと思われる箱物に、方形の切り込みがあります。人間(私)の習性として覗き込むと、…何かの顔が確認できました。
撮影角度が影響していると思いますが、ご覧のように眉毛と目が垂れています。
改めて全体を眺めると、すべてが別物のように思えてきます。壊れて残された様々な石造物を集めて再構成した「これが神仏混交だ!!」としましたが…。