諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

新海三社神社(5)『佐久郡其儘草』 30.11.21

新海三社神社の祭神

 これまでの経緯から、新海三社神社の祭神は「建御名方命・事代主命・誉田別命」の三柱とわかりました。

新海三社神社「中・西本社」
西本社space中本社

 この写真は、秋季例祭時に開扉された、その三柱を祀る本殿です。

『佐久郡其儘草』

 長野県『信州デジくら』で、睡心亭小宮山五丈編『佐久郡其儘草(さくぐんしままそう)写』を公開しています。二巻にある〔田野口村新海神社之部〕に目を通すと、…これが大ヒット。
 ところが、私が必要とする奥書がありません。この書は当時の史資料を“其儘(そのまま)”書き写したもの(の写本)ですから、校了した年月日は不要と考えたのかもしれません。しかたなく、神宮寺住職や小諸城代官の歴代リストから就任年を拾い、「弘化二年(1845)以降の作」と割り出しました。

〔新海三社大明神神系図伝略〕

佐久郡其儘草 冒頭にある、新海三社神社祭神の系図です。わかりにくいので「大己貴命−建御名方命−興波岐命」と要約しました。興波岐命については、別個に「親宮 興波岐命…」と書いています。
 内を読むと、「親宮を興波岐命也と伝え玉うは誤りならんや、按に此は大己貴命にしてよからん、後の人考え玉え」とあります。これを読んだばかりに「後の人」に指名された格好になった私ですが、逃げずに受けることにしました。
 確かに「親宮・大家宮・大宮代(おおみやしろ)」をそのままに受ければ、「親・出雲大社(いずもおおやしろ)」から、その祭神を(興波岐命ではなく)大己貴命(大国主命)としたほうが馴染みます。しかし、私は「佐久の式内社三社」と考え始めていますから、賛同はできません。

〔新海明神祭日〕

 今で言う「新海三社神社の祭事表」です。ここでは、3月の神事を取り上げました。

佐久郡其儘草 中世の諏訪神社上社(現諏訪大社上社)では、3月の初午日から13日間に渡って春祭が行われました。初午の日は外県御立座(そとあがたみたちまし)神事、中日の酉の日に大御立座(おおみたちまし)神事があり、大県・内県の巡幸が行われました。現在は、酉の日が「御頭祭」として続いています。
 新海三社神社でも、名称は異なりますが同じような祭事が行われたことが想像できます。上図では、「午日初祭」「酉日中ノ祭」でしょうか。当月は現在の暦では四月に相当するので、新海三社神社公式サイトで〔主な年中行事〕を参照すると、四月第二日曜日の「春祭」がありました。
 因みに、7月23日には、現在はその名が見られない「御謝山(御射山)祭」が行われたことがわかります。

〔三月寅日大祭馬乗之列〕

 〔新海明神祭日〕には「寅日…」が2回ありますが、「寅日寅時祭」がこの「寅日大祭」に相当します。
 ここには行列の順番が書いてあり、東宮・中宮・西宮に分かれた馬乗の行列が、笛太鼓を奏上しながら臨幸したことがわかります。

佐久郡其儘草

 「上・下ノ仮殿」が登場したので、並べてみました。

東宮−上ノ仮殿へ臨幸−東宮
中宮−下ノ仮殿へ臨幸−中宮
西宮−岩村田若宮へ臨幸−西宮

 西宮は、祭神が誉田別命ですから佐久市岩村田の若宮八幡神社へ臨幸したことがわかります。しかし、上・下の「仮殿」は御旅所と想像できますが、どの地に造られたのかは不明です。

 ここで、境外と言える地に、東西の幸殿(案内絵図の名称)があったのを思い出しました。

東幸殿・西幸殿
西幸殿(英多地畑)space東幸殿(上宮代)

 長野県『長野県町村誌〔田口村〕』では、【新海神社】に二つの「神幸殿」を挙げ「神輿の休所なり」と書いています。幸殿には注連縄が張られた棚状の別室が設えてあるので、御神体をここへ臨行したとしました。この「御神体」は、現在の神事で使われる薙鎌でしょう。

〔新海三社他へ御順臨幸之事〕

 この項は「新海三社へ御順臨幸」ですから、〔新海明神祭日〕の[辰日縣入御神事]に相当すると見ました。前項「寅日寅時祭」の翌々日に佐久の各地に順臨幸したことになります。

『佐久郡其儘草』 これを読めば、前出三宮の祭神が、

 東宮−建御名方命
 中宮−事代主命
 西宮−誉田別命

であることがわかります。また、

 東宮−春日村
 中宮−志賀村
 西宮−岩村田の若宮

と臨幸し、その道中の村々で神事を行ったことが知れます。
 この臨幸は、諏訪神社(現諏訪大社)上社の「大県(あがた)・内県・外県巡幸」と酷似しています。諏訪神社では戦国時代に廃れましたが、佐久の地ではこの形態で明治維新まで続けられたことが想像できます。

 改めてまとめると、「東本社や興波岐命」が登場しないこの形態が、新海三社神社の正しい由緒ということになります。