諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

『菅江真澄民俗図絵』に見る「雁田神社」

雁田明神と若宮八幡

■ 出典によって[かり・鴈・鳫・]が見られますが、通常の表記では[雁]を用いました。

『来目路の橋』から〔雁田明神〕

 信濃史料刊行会『新編 信濃史料叢書』に、菅江真澄の紀行文『来目路の橋(くめじのはし)』が収録してあります。その中から〔雁田(かりた)明神〕に関係する部分を抜粋しましたが、ひらがなが多くて読みにくい文体になっています。ここでは、文字数を減らす効果もある漢字に変換し、読み仮名や私注などを加えてみました。

(旧暦7月)廿九日(前略) 押田村を経て、西条という処に至る。ここに雁田の神とて誉田尊を崇め祀る祠の内に、石のおばし(男端※男根)形造り幾つも並べたり、かへりまうし(?)に掛け奉る。作り画(※絵馬)なども、めおのはじめ(後述)、みとのまぐわい(※男女の交合)の形ありけり、怪しく見れば、腰より下つ方なる病を祈れば、速(すみ)やかに、その験(しるし)ぞありけるとて、ふた布(※腰巻)、あるいは前垂(まえだれ)ようのもの掛け、男は褌(ふんどし)をなん奉りける。身の病のとこを記して御手幣(みてぐら)に引き結びてありける文(ふみ)を読み終わりて、

おもふこと書つらねてや玉づさを
 かけてかり田の神いのるらん (和歌は原文のママ)

『菅江真澄民俗図絵』から〔雁田明神〕

■ 【粉本】「後日の研究や制作の参考とするために模写した絵画」(『weblio』より)。諏訪関連では、御頭祭の絵二枚が知られています。
雁田明神
『菅江真澄民俗図絵』〔雁田明神〕

 内田ハチ編『菅江真澄民俗図絵(上)』から、粉本稿〔雁田明神〕を転載しました。前書『来目路の橋』の挿絵となりますが、説明文が併記してあります。ここでは、同書の活字化したものを転載しました。

 「しなのゝ国善光寺のほとりにかり田明神とて、石に作たる雄元のみやあり、こしよりしたつ方のやまうをなをし給ふとて、かへりまふしには紙布などを着せ奉る、まつもとのさとちかき所にあしのたといふ邑に祭るわかみや八幡も大なる石のおのはじめ也、なへて道祖神とて国々にある也」

 ここにある「石に作たる」が「石の」に対応するので、「雄元」が「おのはじめ」と読め、雄(男)(根)元から「男根」と(ようやく)意味がわかりました。これで、本文の「めおのはじめ」が(校正漏れ・誤植となる)おのはじめ」と理解できました。

 せっかくなので、読みやすいように書き替えたものを用意しました。

信濃国善光寺のほとりに、雁田明神とて石に作りたる雄元の宮あり。腰より下つ方の病を治し給うとて 、かへりまふしには紙布なとを着せ奉る。

 これに続く文ですが、後に挙げる絵に合わせて分けてみました。

松本の里近き所に芦ノ田と言う村に祭る若宮八幡も大なる石の雄元也。なべて道祖神とて国々にある也。

 この「松本の里近き…」に対応する本文を求めると、『すわの海』に以下のものがありました。これも改変してあります。

(旧暦二月)十七日 今井の郷にまかりて、(中略) その帰るさに兼平明神の御社に詣でて、(中略) はた(また)芦ノ田にかかれば、小さき瑞垣(みづがき)ありけるは、若宮の宮代(みやしろ)とて仁徳天皇を崇め奉るとかや。御社の中には、雄元の形を(ママ)(ばかり)の石にて刻み奉ると里人の言えり。

 [(ママ)]は「そのまま」という編集者の注釈ですから、長さを表す言葉が抜けていることがわかります。そのサイズも気になりますが、それより、長野市(善光寺)にある雁田明神と、それに似た若宮八幡が松本市にあることに興味を覚えます。

雁田明神と若宮八幡の鎮座地

雁田明神 絵図の中央部には吹き出し状の波目があって下に雁田明神を書いています。そのことから、下部が「主」の雁田明神で、上が「従」というか菅江真澄が関連する神社として挙げた若宮八幡ということになります。
 双方を見比べると、閉扉した若宮八幡は町中にあり、雄元と絵馬を描いた雁田明神は山の上にあることがわかります。これが、鎮座地を特定する上でのヒントになりました。

 鎮座地については、現在の住所と名称で、

雁田明神−長野市若槻東条「蚊里田八幡宮(奥社?)
若宮八幡−塩尻市洗馬芦ノ田「若宮社(跡)

と比定できました。その顛末と参拝記は、ここまでの解説が長くなったので次回としました。

 蚊里田八幡宮参拝記は、以下のリンクで御覧ください。

line