諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

蚊里田八幡宮 長野市若槻東条

■ 本稿は、『菅江真澄民俗図絵に見る雁田神社』の続篇です。

雁田明神

 菅江真澄の紀行文『来目路の橋(くめじのはし)』に登場する〔雁田明神〕に、「押田村を経て、西条という処に至る。ここに雁田の神とて…」があります。粉本稿『菅江真澄民俗図絵』では「しなのゝ国善光寺のほとりにかり田明神とて…」と書いているので、雁田明神の鎮座地を求めることにしました。

 まずは「押田・西条」ということで、字(あざな)を調べる際には最適な『地理院地図』を開き、善光寺の周辺を目でサーチします。押し寄せる眼精疲労に耐えながら「浅川押田(おしだ)・浅川西条(にしじょう)」を見つけましたが、『Google』で「長野市押田」を検索したら、一発で表示しました。

押田・西條 次に、平成の大合併で字名が変わっていると考え、「明治四十三年測図昭和六年修正測図及修正縮図」とある五万分一地形図『戸隠』を開きました。
 同じ場所に「押田西條」が確認でき、現在も、旧村名が「浅川押田・浅川西条」として残っていることがわかりました。

 ここで、冒頭の一節に戻ります。菅江真澄は押田村を経て「西条という処に至る」と書いているので、雁田明神は「二本松」の右にある神社が相当します。『Google マップ』では「蚊里田八幡宮」ですが、同じ読みなので、それを雁田明神と認定しました。因みに、押田と西條の間にあるのは諏訪神社でした。

蚊里田八幡宮

 サイト『蚊里田八幡宮』から〔由緒〕の一部を転載しました。[鎮懐石]の説明が主なので、パスしても構いません。

 社伝によると当社の御神体である霊石は九州福岡県怡土郡(いとぐん)蚊田(かだ)の里から運ばれてきた鎮懐石(ちんかいせき)と伝えられ、神功皇后が三韓征伐の折、皇子應神天皇のご誕生を遅らせられるため腰に帯せられた霊石であると伝えられております。この霊石を源義家が陸奥征伐に陣中の守護神として奉持し、戦が終ってその子の義隆に授けられ、仁平年間(1150)に現在の本殿裏山をゆかりの地、九州蚊田の里の地名を取って蚊里田山(かりたさん)と称し、その麓に蚊里田神社として霊石を祀ったと伝えられております。

 治承四年(1180)、義隆の子頼隆が源頼朝から現在の若槻東条、浅川東条、押田及び旧若槻村の大部分を含めた若槻庄を与えられ、文治元年(1185)に地頭に任ぜられて源氏の守護神の八幡様を祀るよう頼朝に命じられ、霊石(鎮壊石)を御神体とし蚊里田八幡宮として祀られたと云われております。

 これだけは読んでおいて下さい。

 以来、蚊里田八幡宮の御神体である霊石(鎮懐石)は桐の箱に納めて毎年5月8日の春季例大祭に、お唐櫃(からひつ)に納めて神社に移し奉り、宮司が奥社(おくしゃ)に安置し厳かに神事を行ってきております。

 「鎮懐石」を現在の信仰形態「安産」としても、『菅江真澄民俗図絵』に載る文と絵が素直には結びつきません。住所も「若槻東条」です。ここで、一旦は雁田明神を否定しましたが、文末の「奥社」が相当するのではないかと考えました。これで、後は現地で確認するのみとなりました。

蚊里田八幡宮参拝 '22.7.2

 雁田明神とは同類となる新潟県の雁田神社を三社巡拝した帰り、長野県の蚊里田八幡宮に寄りました。

 駐車場は、その表示がないので私有地にも見える空き地です。咎められた際の言い訳を考えながら50m程戻り、Uターンする格好で鳥居をくぐります。

蚊里田八幡宮 これで神社参拝の手順を踏んだことになりましたが、最高気温がピークを迎えようとする中では、上り坂の参道と相まって、やはりショートカットすべきだったとの後悔も…。
 石段脇にアジサイが咲いています。丁度日陰となっており、一時ほど眺めて汗を静めました。

蚊里田八幡宮

 石段を登りきれば、思いのほか広い社地が広がっています。

蚊里田八幡宮 まず目に留めたのが、上写真では左下に当たる竹垣で囲われた一画です。ここに、下半身が草に埋もれていますが、注連縄を廻した(仮称)マラ石がありました。しかし、神社ではよく見られる大きさ形状ですから、ここで言う「男端・雄元」とは異なります。

蚊里田八幡宮 初めは神楽殿と見た社殿は、案内板で「祝詞殿・神饌殿・拝殿・神楽殿」が複合した造りと知りました。それは別として、開放されている社殿の内外を観察しますが、私が求めているモノはありません。
 残るは、一壇高い場所にある本殿です。脇の踏み跡をたどると横方向から間近に拝観できましたが…。

雁田明神
『菅江真澄民俗図絵』〔雁田明神(部分)〕

 山を背後としている本殿を確認すれば、社殿の大きさはともかく、『図会』に描かれた「山頂にある祠」の景観とは大きく食い違っていることがわかります。
 こうなると、雁田明神は「山の頂にあると思われる奥社を描いたもの」との考えが強くなります。しかし、社殿脇には傾斜を増した林道が奥に延びていますが、奥社についての情報は持ち合わせていません。ましてやこの暑さです。今回は、蚊里田八幡宮の参拝のみで引き揚げました。

蚊里田八幡宮と鎮懐石

 長野県『長野県町村誌』で調べると、明治初期でも、蚊里田八幡宮は〔東條村(若槻村)〕でした。また、〔社〕については、他には石塚八幡社と山神社のみしか載っていません。

【蚊里田八幡社】村社 (前略) 村の亥の方蚊里田山にあり。祭神誉田別尊、足仲彦尊、息長足姫尊、創建年月不詳。(仲略) 社殿正徳年間の営造なりしに、漸々(ぜんぜん)破壊せるを以て、文久二年之を再造す(中略) 往時の社殿は、字蚊里田山の内 現地より北に距る四十三間三尺 にありしを、村人其地を不便として、慶長年間今の地に移せしと。

 現在の社殿は文久(1861〜)以降の建造とわかります。菅江真澄は天明3年(1783)の参拝ですから、その当時の社殿は「漸々破壊せる」状態だった可能性があります。しかし、それを木祠一棟に当てはめても、やはり「山上の祠」とは結びつきません。

 そのため、境内もしくは境外に「そのようなモノを納めた奉納所」があったとも考えましたが、今のところ、菅江真澄が参拝した雁田明神は「山の上にある奥社(古宮)」とするのが一番有力でしょうか。

 前出の【蚊里田八幡社】でも「鎮懐石」を書いています。

 因(ちなみ)に云ふ、当社の神宝と称するものに、八幡宮鎭懐石あり。長一尺一寸、囲(まわり)一尺、其色青黒、石理緻密にして光沢あり。
 伝え云う、此石往昔築紫国怡土郡某神社に、大小の二石ありしを、故ありて其小なるものを伝来せるなりと、是即ち仲哀天皇崩御の年皇后娠するあり、皇后新羅を征せんとし玉ひしに、適(たまひ)ま其開胎に当れり。乃(すなわ)ち自ら石を取りて御裳に挿し、祝して曰(のた)まう、事終わりて還るの日、此土に生れませと。其冬凱旋し、皇子を築紫に生み玉う。是を鎭懐石の出来と云ふ。

 「鎮懐石」があったのは福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮です。それを「某神社」と伏せているのが何とも怪しいのですが、他意は無いのかもしれません。

 本稿の前編というかプロローグは、以下のリンクで御覧ください。

line