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金毘羅神社の「天狗」鳥居 山梨県北杜市明野町小笠原

金毘羅神社の鳥居
「昭和30年ころの金毘羅宮鳥居」

 平成2年に、明野町の石造物を調べる機会がありました。その時に、明野村誌編纂委員会編『新装 明野村誌 石造物編』で目にした鳥居(左写真)に興味を持ちました。
 以下は、〔原地区〕に載る「石鳥居」からの抜粋です。

 この鳥居移転と併せて金毘羅神社の遷宮工事も行った。四基の石祠のうち三基は金毘羅大権現に関係したもので、鳥居の額朿に狐の面ともひょっとこ面とも思える面が二つ見事に陽刻してある。鳥居の左側に「石工、諏訪丸山村守屋」と陰刻してある。守屋といえば須玉町津金海岸寺の格調高い百体観音を十余年を費やして彫った守屋貞治の名を思い出す。守屋貞治の作かと思ったが守屋違いであった。貞治には及ばないにしても、信州石工の傑作であると思う。

金毘羅神社参拝 '22.4.10

金毘羅神社

金毘羅神社の鳥居

 T字路の一角を占める金毘羅神社です。この写真ではわかりませんが、諏訪より一足も二足も速い春ですが、桜はすでに散り始めという地でした。その正面に建つのが、標題の鳥居です。


烏天狗space天狗

 額束造り付けの額には、異体字の「金」を用いた「金毘羅大権現」が彫られ、その上に、「烏(からす)天狗と天狗」の面が並んでいます。
 これを見たさにここまで来たのですが、残念なことに双方とも鼻が欠けていました。柱と台輪・貫(ぬき)が新しいので、倒壊した際に破損したのでしょう。

 首の軋みに耐えかねて目を落とすと、柱には、『明野村誌 石造物編』通りの「天保十一年(1840) 子三月吉日」が彫られていました。
 「さて、鳥居の全景を」と、その周囲を動き回る中で、灯籠の残欠と思っていた石柱が鳥居の旧材であることに気が付きました。

 覗き込むと、「願主/(削り取ったように見える□□□)/新居組中」「石工/諏訪丸山村/守屋」が読めます。「丸山村」は現在の「茅野市丸山(丸山新田村)」に相当しますから、その在の守屋さんが造ったものとなります。
 この銘がある故に破棄されず、案内柱として この場所に建てられたのでしょう。


原山神社と金毘羅神社

 前出の〔原地区〕に載る[石鳥居]です。冒頭の抜粋はこの末尾に書かれたものです。

 明野保育所人り囗のこんもりした林の中に数多くの石造物が並んでいる神域がある。地元では原山神社と呼んでいる。この呻壯は以前(昭和十八年)は現在の村営プールの南西の辺にあったものを、小学校増築にともない現在地に移した。
 この入り口に高さ三三六センチメートルの明神鳥居がある。この鳥居は中央道通過予定地のすぐ傍らということで、当時の役員が道路公団と話し合い、補償料のなかから昭和四十九年に原山神社境内に移転した。造立は天保十一年(一八四〇)で、願主は新居組中とある。
 昔、現在の原地区の西にその集落の一部があったと古老から聞いたことがある。多分そこを新居組と呼んでいたのではないかと想像することができる。もしそうであれば、この鳥居は新居組のあった地域に建っていたものと思う。
 原の中央道西側の地域には石造物が一カ所に集めてある場所がある。そこには馬頭観音二基、如意輪観膏一基、地蔵一基、名号塔一基、廻国塔一基、供養塔一基、庚甲塔二基、種別不明の石祠が三基と、その数は一〇基以上である。
 この石造物群はほとんど一七〇〇年代の造立で、江戸中期のものである。また、その付近の畑の中には古い墓とみられる墓石が何力所か点在している。昔は住居の周りに墓地を造る風習があったので、確かに新居組の存在も考えらる。

 地図には金毘羅神社とありますが、「金毘羅神社・原山神社」が正しい表記でした。

金毘羅神社の鳥居
金比羅神社space原山神社

 これで、左方が金比羅神社で、右側が秋葉神社他を祀る村落名由来の原山神社と理解できました。実は「原山神社は御射山神社ではないか」と推定していたのですが、きれいに消えました。また、「神社の移転は多い」ことを常に頭に置かないと、現在の景観から神社の創立を紐解くことになる危うさを再認識することになりました。

「受岩山地蔵大菩薩」

 上写真では右から三番目の石祠ですが、造形に異質なものを感じたので別個に撮っておいたものです。屋根は流造ですが、身舎に透かし彫りがあり中に石像が納められています。
 自宅で検証すると、「受岩山地蔵大(菩薩)/火防/原村中 施主」と読めます。ネットでは「受岩山」が見つからないので、今は廃寺となった山号でしょうか。