岡谷市湖畔に「御社宮司神社」が鎮座しています。ところが、古絵図に「三狐神」と書いてあることからか、「稲荷神同体」とした古文献も見られます。私といえば「この御社宮司神社の原初は浦野太郎稲荷神社(ではないか)」と考えているので、以下に出る「三狐」の文字に否応なく反応してしまいます。
小口伊乙著『土俗より見た 信濃小社考』を読んで、木曽町(旧木曽福島町)にも「三狐社」があることを知りました。
ただし、稲荷神とも御社宮司神とも判断できずにいるようで、〔稲荷社〕と〔御社宮司社〕で同じ三狐社を取り上げています。
今井野菊寄稿『御社宮司社の踏査集成』から、関係する神社を拾い出しました。
ここでは両社を並記しているので、「合祀なのか・それぞれの別称なのか」どう読み取っていいのか迷います。
図書館に、木曽福島町教育委員会『木曽福島町史』がありました。分厚い三巻を調べて、『第一巻 歴史編』では、
『第二巻 現代編U』では、
とあり、(明解に)「三狐神社は御社宮司社」と説明しています。
ここで気になるのが、文末の「詳述」です。しかし、“詳述”は前出の『第一巻 歴史編』でした。それでも、究めてマイナーな神社にこれだけの字数を割いてくれた教育委員会には感謝するしかありません。
後は現地へ行くのみですが、その前に、国道に「万郡」の信号があるのを知っていたので、その周辺をストリートビューで走ってみました。
すると、赤い鳥居に稲荷社の冠詞「正一位」が…。「正一位諏訪大明神」もあるし、岡谷市には赤い鳥居の御社宮司社もあるので、稲荷社の専売とは限りませんが…。新たに生じた謎として、ストリートビューを表示させてみました。
計画通り木曽町役場に車を置かせてもらい、難なく三狐神社の前に立ちました。ストリートビューでわかっていましたが、鳥居の背後にある社殿は、右側の「万郡越畑集会所」と連結した建物でした。つまり、外観からの判断になりますが、集会所の広間を拝殿兼本殿の覆屋にしたということになります。
右上に見えるのは国道19号の橋梁で、左方の坂道はそれに繋がる連絡道路です(信号「万郡」から下ってくる道)。かつての国道は木曽川沿いでしたから、昭和の後半までは、ここには沢沿いに登る右手の道しかなかったことになります。また、橋梁下の万郡沢は、神社のすぐ背後を通り木曽川に合流しています。三狐神社の立地を窺わせるものとして、説明を入れてみました。
カーブミラーの横にある案内板です。
神社名の説明は「御社宮司社」ですが、行っていること(事物)は稲荷社そのものです。ある時期に祭神が入れ替わったことが考えられますが、木曽路ではほぼ皆無とされる御社宮司社ですから、原初から稲荷神の「三狐神社」であったと考える方が自然でしょうか。
それを思いながら鳥居額を仰ぐと、間違いなく「正一位三狐大明神」でした。また、案内板を読んだ直後なので覚えていた「山村氏」ですが、謹書は「神職宮田文夫」でした。
立ち寄り参拝者には開放されていない、集会所の一室に安置されていた三狐神ですが、何とか撮ったのがこの写真です。小型の祠ですが、時代を感じさせる色に染まっていました。
帰り際に、二基の灯籠の銘「天保六年乙未(1835)四月」を読んでみました。また、火袋に貼られた、まだ白い和紙に「万越講中・講中安全」とある文字を読めば、現在も万郡と越畑の氏子が大事に守り祭祀を行っている神社であることが見えてきます。
JRの跨線橋から、『福島町史』に出る石亀平を入れた三狐神社を撮ってみました。