衛星写真を見て、御社宮司社の立地が河岸段丘崖に関係するのではないかと考えました。そこで、天伯社への興味もあって、三峰川(みぶがわ)を挟む旧美篶(みすず)村と旧富県(とみがた)村の範囲で現地踏査をすることにしました。
御社宮司社が確認できます。しかし、駐車場が見つからないまま斜めの急坂を上りきると、予想もしなかった台地の上に出てしまいました。再び国道に戻り、改めて徒歩で向かうと、この幹線道路に沿う山裾が河岸段丘崖であることに初めて気が付きました。
横向きの社殿の前に回り込んで扁額に「御社宮司」を読むと、御社宮司社が河岸段丘崖のラインに沿った東向きであることがわかります。
そうなると、逆向きとなる鳥居は車道の開通に合わせて場所と向きを変えたとしても、御社宮司社は旧川手村を横目で見る方向で鎮座していることになります。
屋根は傷んでいますが、「享保期頃に、加藤吉左衛門一門によって建立されたものと考えられる」とある本殿です。
長野県『長野県町村誌』では、祭神を「国造大己貴命なり」と書いていました。
美篶村誌編纂委員会『みすゞ』にある〔御社宮司社〕から抜粋しました。
昔は旧暦7月22日。現在は10月2日。
奉納行事として、往時は前宮において中央に大燈籠をつけ、その周囲に若連男女集まり盆踊りを盛大に行い月の出るまで御立待をした。
「盆踊り」とあるので、御社宮司社の祭事とは関係ないようです。「前宮」は、その詳細に「板張り・四方吹抜」とあるので、私が神楽殿と見た社殿とわかりました。
カーナビが案内役なので、社殿の背後にある車道が到着地となりました。
来てみれば、公民館と墓地に挟まれた御社宮司社でした。その社殿の横に立つと、境内を挟んだ正面に鳥居があります。ここからは見えませんが、段丘崖を登って鳥居をくぐるのが昔からの参道とわかります。
「まずは鳥居をくぐって」と近づけば、その先は下りの石段です。社殿がファインダーに収まる位置まで降りましたが、鳥居は柱の極一部が写るだけとなりました。
改めてコンパクトな覆屋内を覗き込むと、珍しく、屋根に置千木がある本殿がありました。
この御社宮司社は、段丘上の縁から上川手の集落を見守っているように見えます。それを「その先の三峰川を見下ろしている」と発展させれば、先ほど参拝した下川手の御社宮司社は「天竜川を背にしている」と説明できます。ただし、各集落の位置関係がわかっていない私ですから、見当違いの説明になっている可能性があります。
桜井の天伯社を参拝した際に、たまたまGoogleマップに表示したので、ついでにといった感じで参拝しました。その前に立てば巻(まき)の神社といった規模でしたから、写真を撮っただけで引き返しました。
その後、美篶の御社宮司社を調べる中で、長野県神社庁の包括神社と知りました。また、写真を見返して、やや離れた背後の木々が段丘の縁(へり)とわかりました。ただし、集落の中を通る道に接していますから、社殿の向きに三峰川との関連性はないとしました。
伊那市教育委員会『伊那市神社誌』の〔その他の神社〕から転載しました。
これまでに挙げた御社宮司社は、三峰川の河岸段丘崖の縁にに沿って鎮座しています。しかし、目論見と違い、段丘崖と神社の立地に関連性を見つけられないまま幕を引くことになりました。
それでも空中写真に鎮座地を表示させたのは、段丘崖が緑の帯となって文字以上に説明できるからです。諏訪にはこれほど顕著に見られる段丘崖はありませんから、私には引き続き興味ある地形として残りました。
凝り性の私とあって、陰影起伏図に地形図を重ねたものも用意してしまいました。
中央にある、私は「剃り残したヒゲ」と表現した謎の構造物は、後の洪水被害のニュースで(何とも雅な)「霞堤(かすみてい)」そのものであることに気が付きました。確認すると、この辺り(三峰川右岸)には七ヶ所もありました。