諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

元木の石鳥居 山形県山形市 鳥居ヶ丘

元木の石鳥居 '22.10.24

 ナビが示した道の狭さに不安を感じてパスしましたが、程なくして現れたマックスバリュに、「ここは一つ寸借駐車で」と決め込みました。

 「最上三鳥居」の一つである「元木の鳥居」は、写真では見ていました。しかし、それを目の前にすれば、特異な形状であることは承知していても、ゴツゴツした質感が醸し出す存在感に、思わず「おー」と感嘆符が出ました。

元木の石鳥居

 写真を撮る中で、右の柱がやや内側に転んでいることに気が付きました。車の通行による長年の振動や圧力で基礎が押されたと考えてみましたが…。

元木の石鳥居 山形県と山形市の教育委員会が設置した案内板「国指定重要文化財 鳥居」の本文です。
 地元の呼称「御立の石鳥居」がありながら単に「石鳥居」と命名したのが疑問ですが、それなりの理由(基準)があるのでしょう。
 それはともかく、「幅に対して高さの低い姿」は他には見られないもので、「死ぬまでに一度」とは大げさですが、ここに来た価値は十分にありました。ただ、凝灰岩とあって風化や凍結による剥落が顕著なので、維持・保存の重要性を思いました。

後日、ネットの写真に銀色のシートで覆われたものがあり、「冬期間カバーが掛けられる」と説明がありました。

元木の石鳥居

 これだけ存在感のある石鳥居ですが、その後方に、向きを90度変えた稲荷神社があります。このような立地はあり得ませんが、「参道が無い・鳥居だけが立つ」という状況下では、ここに神社を設置しても問題なしとしたのでしょう。それだけ元木の石鳥居が古いということになりますが、何とも不思議な光景でした。

瀧山(りゅうざん)

 案内板では「竜山」ですが、「瀧山」が広く使われています。

 鳥居が目当てだったので、案内板にある「竜山」がどの山なのか指を差せずに帰りました。自宅で地図を眺めると「あれれ!?」と言うほど離れた場所に「瀧山」があるので、案内板の「竜山を背景に西に面して立つ」に疑問を持つことになりました。

元木の石鳥居と瀧山
『地理院地図 Vector』〔標準+地形〕地図を加工

 正確を期すために、「元木の石鳥居」に鳥居の向き━━を重ねてみました。これでは瀧山を遙拝する建て方とは言えませんが、直近を流れる龍山川(※地理院地図の表記)に並行する道を参道とすれば、単にそれに合わせただけと説明できます。しかし、鳥居を神仏習合の産物としても、元々「瀧山の仏教文化」に知識がありませんから、これ以上の深追いは止めにしました。

「元木」の石鳥居

 この鳥居は字「鳥居ヶ丘」にありますが、「元木の…」が多く使われています。それに気が付いて地理院地図を眺めると、川向こうの南西に「元木一・二・三」がありました。「◯◯ヶ丘」は新興の住宅地によく使われますから、かつては、それを含めたこの一帯が旧元木村だった可能性があります。

元木
参謀本部『山形』(一部)

 「明治36年測図昭和6年修正測図」とある五万分一地形図を開くと、「石鳥居」の左肩に「元木」があります。この字は「迎田」より大きいので、この周辺はすべて字(おおあざ)「元木」だったことになります。これで、「“元木”の石鳥居」と呼称されていることに頷くことができました。
 さらに、県道(現在の国道112号)が元木の鳥居に吸い寄せられるように曲がっているのを見てピンと来ました。

元木の石鳥居
『地理院地図 Vector』〔写真〕を加工  

 現地で見た鳥居前の入り組んだ小路を航空写真で確認すると、その一つが、地形図にある曲がった県道であることがわかります。また、「狭くてパスした道」が、その県道を東西に横切って鳥居に向かう道と判別できました。
 そうなると、国道112号(旧県道)が直線化される前は、多くの人が鳥居を目にしたことになります。その流れで「何かにそのことが書いてあるのでは」と探せば、山形県『山形県名勝誌』(明治41年)にありました。読みやすいように、漢字変換・ひらがな表記・現代仮名遣いなどに直してあります。

 二〇 元木村石華表(※華表=鳥居)
瀧山村大字元木村の路傍にあり。古朴奇形にして、道行く人の必ず注視する所なり。此の華表と同型のもの他にも二箇所あり。荻ノ戸原(東村山郡)及び若木原(北村山郡)にあるもの是なり。之を出羽ノ三鳥居と称す。故人五十嵐于拙(いがらしうせつ)の言葉掛に曰く、

 瀧の山の麓を過ぎ侍(はべ)るに、元木村を出て道のほとりに、苔むせる石の華表立てり。さしも神さびて奥床しくぞ覚え侍る。里人に問へば、天仁の頃とかや、瀧山の權現へ奉(たてまつ)れる鳥居なりとなん。
 其丈低く柱太しく、更に今様のものにあらず。往来の人の撫で減らしたるさまにて、柱の根もと、いと細ろぎて、久かたの天津乙女が羽衣持て撫(な)づる巌の古(ふ)る事も思い合わされ侍る。開(あ)かれる世には、この権現の利生(りしょう)新たにおわしまして、幾久しく山も賑わい、世にも遠く聞こえ侍りしにや。西行上人も詣で給いて、花の一首を残し給う名所なりけらし。

瀧の山かヘりもうで(帰詣)の袖ふれて
 いしの鳥居も細らぎやせし

因に記す。成澤村八幡神社の鳥居も略(ほ)ぼ是に同じく、天仁二年に建立せしものなりという。柱石は廻り九尺三寸、長さ同断、笠石の長さ三間あり。

※ 文中の和歌は、西行ではなく于拙本人の作だそうです。

 「道行く人は必ず注視した場所」と書いています。地形図でも「一貫清水橋」と「石鳥居」をランドマークとして表示していますが、国道が直線化された現在は、地元でも知らない人が多いのではと想像してしまいます。