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雁田神社 新潟県上越市名立区 折居

雁田明神
内田ハチ編『菅江真澄民俗図絵(上)』〔雁田明神(部分)〕

 菅江真澄がスケッチした「石の雄元(おもと)」を見たことで、新潟県に鎮座する雁田(かりた)神社を知りました。
 調べると、上越市を中心に四社あります。その中で、奉納品が見られる(拝観できる)三社を巡拝しました。

旧名立村の雁田神社

 巡拝時に上越市の図書館に寄る計画でしたが、余りの暑さにパスし、自宅で遠隔調査することとなりました。
 「まずは」と言っても、これしか無い『国立国会図書館デジタルコレクション』で調べます。「雁田神社」では反応しないので『市町村誌』の類で検索することにしますが、その名称を知りません。切り替えたタブで「上越市名立区」をググると、西頸城郡(にしくびきぐん)名立町(なだちまち)でした。その「西頸城郡」で再検索すると、二書が引っかかりました。因みに、この図書館は、著作権が切れたものでないと閲覧できません。

 まずは、新潟縣西頸城郡教育會『西頸城郡誌』です。〔神社〕[名立村]から転載しました。

雁田神社 折(居?)
文政二年四月八日勧請。

 附記 合祀せるものや崇敬社等につきての記述には不充分の憾あり。

 たったこれだけですが、〔人情・風俗・習慣〕[名立村風俗]では

 名立村の人情は概して (中略) 五月にも入りぬればその八日を以て灌仏会は行わるるなり、こは何處も替わりはなかるべけれど別けて此日に於て刈田(※雁田)神社の春季祭典なれば一村の老若男女は云わずもがな、近くは能生谷・桑取、遠くは高田四辺の信者に至るまで今日をはれ(ハレ)と着飾りて蝟集(いしゅう)するが故に村に相応(ふさ)わぬ賑(にぎわい)を呈するぞかし。 (中略) (九月十五日)此日又刈田神社の秋季祭日なれば其賑は春期のそれに異らず。

(以上明治三十六年西頸城郡地理歴史編纂史料)

とありました。注目すべきは、「別けて(も)」と強調してあるように、春秋の例祭には大いに賑わったことです。

 西頸城郡教育会編『新潟県西頸城郡郷土誌稿 第一輯 口碑傳説篇 第一冊』 〔社と寺の話〕では、

雁田神社
 名立村大字折居(おりい)字坪山(つぼやま)にある雁田神社は、高御産霊神、神御産霊神を祭神としているが、御神体には次の如き話がある。
 舊八第七世(?)の太助なる者が、霊夢に応じ、屋敷内を掘り起すと、陰陽の二石が現れた。これを祀ったもので、腰より下の病に霊驗があるので、五月八日、十月十五日の例祭日には、参詣者でひどく賑う。
 雁田の名は、初め骨牌(?)大の小地域に祀ったからだという。

 (西頸城郡郷土研究資料)

 調べた結果、意味不明の「骨牌」は「カルタ→かりた(雁田)」と理解できそうですが、「カルタ大の小地域」とは…。

 両書から、創建は文政二年(1819)と比較的新しく、その当時はプライベートな神社であったことが知れます。また、(祭神は後付として)御神体が陰陽石であることから、年二回の例祭時は「男女の歓楽の巷(ちまた)」という認識が知れ渡っていたことを想像してしまいます。何しろ山奥の神社でしたから、そう見ないと【蝟集】(一か所に群がり集まること)する説明がつきません。

雁田神社の地図 試しに、「明治四十四年測図昭和五年修正測図」とある、参謀本部作成の五万分一地形図『高田西部』を開いてみました。
 字「折居」を探すと「雁田神社」がありますが、「丸田」にある旧名立村の村社「圓田神社」は凡例のみです。

居多神社の地図 ところが、驚くことに、同地図にある「式内社・越後国一宮・旧社格は県社」を冠する「居多(こた)神社」も凡例のみです。
 これで、雁田神社は、居多神社をも差し置く超メジャーな神社であることを参謀本部が認めたことになりますが…。

雁田神社参拝 '22.7.2

 カーナビでは表示しないので、Googleマップに頼ります。雁田神社までもう少しという場所に舗装された空き地があり、それを駐車場と見て徒歩で向かいます。

雁田神社

 すぐに、この山中では異様とも思える大きな社殿が現れました。その背後に達すると、舗装が切れた場所に「山の中の一軒家」と言える民家があります。「一軒家と一軒社」ですから、双方の特殊な関係を思ってしまいました。

雁田神社(名立)

 最大関心事は社殿の背後に認めていますが、「お楽しみは最後に」ということで、まずは社殿の全景をカメラに収めました。

雁田神社 上写真では左方から社前に回り込むと、境内には池があり手水舎と鳥居も完備しています。これまで参拝した雁田神社は境内社という規模でしたから、様子が違います。「その鳥居から正式参拝」と、一旦その脇を下りると、本来の参道らしき小道が続いています。その先を窺うと、谷底から斜面を巻くようにしてここへ上がってくるように見えました。

雁田神社 重ねて書きますが、これまでに巡拝してきた雁田神社に比べれば、違和感があるほど大きく立派な社殿です。その造営に掛けた財力を思うと、「雁田神社の総本社はここだ」と自負する氏子達の熱い思いが伝わってきます。
 改めて見回すと、左右の柱が耐雪用のものとわかります。冬期には板で囲って保護するのでしょう。

雁田神社 扉が開放されているので、拝殿兼本殿の覆屋の奥に本殿が拝観できます。
 今開けたばかりというような清々しい殿内ですから、前記した住民が一日を通して管理しているのは間違いありません。


雁田神社 これが、陰陽石(一部は陰陽木)です。しかし、奉納者の思いをよそに、ただただ好奇の目を向けてしまいました。
 社殿の壁面から出っ張った構造物と、棚の屋根部が一体化しています。その部分に御神体の石を安置した本殿の後部が収まっていると見ましたが、どうなのでしょう。それに関連して、奉納品の雪対策はどうするのだろうと観察すれば、角フックがあり、それに板を差し込んで覆う仕組みと頷きました。

雁田・刈田・蚊里田

 これにて、菅江真澄がスケッチした「石の雄元」を発端に始まった新潟の雁田神社巡拝は完了しました。しかし、なぜ「雁田」神社なのかはわからず終いです。
 地域的・歴史的に見れば長野県の蚊里田八幡宮の影響を受けた可能性が高いのですが、今回の巡拝と史料収集では結びつけることはできません。また、俗称(隠語)の「雁(カリ)」を語源としても、この地域だけにまとまって存在することが説明できません。