風三郎(かぜのさぶろう)神社前で10時と記録してから、黒牛沢に沿った道を登り始めました。ところが、大岩にびっしりと貼り付いたイワタケを見つけるなど色々ありましたが、陣馬形林道に突き当たったことで、風穴は見つからなかったという結果が出てしまいました。失意のまま、後半の道なき道を這い上がった代償で痛み出した足をかばって車に戻りました。
念のためにと持参した『南向村誌』の「風三郎神社」を読むと、最後の一行に「奥宮はここより数百m東北の山腹、巌洞の中にある」と書いてあります。その距離を時間に換算すれば「そういえば、20分くらいと話していたな」とうなずくしかありません。しかし、まだ時間はあります。非常食(おやつ)として用意したビスケットを昼食代わりにかじり、気を取り直して二次アタックとしました。
右手から下ってきた小沢が、境界が薄れてきた登山道を横切っています。「奥宮は神社の背後にある」とすれば、その沢の右側にあると考えるのが合理的です。しかし、登ってみたものの、大きな岩そのものが見当たらないのですぐに引き返しました。
右手の斜面に累々と重なる岩石のはるか上部に、崖状の岩盤が連なっています。今までに無かった大きさから期待が膨らみます。
コケで隠れた凹みに靴を突っ込まないように、時には足首を捻挫してしまった情けない自分の姿を思い浮かべながら慎重に登ります。
岩肌がすべて露わになると、その右端に写真で見たものと同じ形状の穴がありました。近づくと、斜面に清酒の一合瓶が半ば埋もれています。さらに、直前の丸石に方形の穴が穿かれていたのがダメ押しとなりました。
この場所を2時間前に通り過ぎたのは、沢沿いにあるという先入観と、灌木の葉が岩肌を見えにくくしているという現状でした。
風穴は、穴と言うより、大きな裂け目でした。ただし、半分ほど埋まっているので、中の様子は見えません。
岩の突起に足を掛けて覗き込むと、大人が一人潜ることができる袋状の穴が確認できました。「金(かね)の幣(ぬさ)と注連(しめ)は、今でもあるのだろうか」と見回せば、鉄筋のようなものが見えます。かつては先端部にリング状のものがあり、そこから鉄板の紙垂(しで)が左右に下がっていたと想像してみました。
この位置でも顔に風の吹き出しが感じませんから、下に続くという穴は土砂で埋まっている可能性が大です。それでも、穴底に顔を近づけて風の流れを確認したい誘惑にかられます。
しかし、この風穴と台風の因果関係は伝承上のものとわかっていても、何か躊躇させるものがあります。それ以前に、山岳会員として岩登りの講習は受けていても実践したことはなく、このような時に備えてビブラム底のトレッキングシューズを履いていても、突起の少ない濡れた岩をよじ登る気力は高齢者の部類に入る私には持ち合わせていません。写真に残すのみとしました。
道がないので適当に下ると、小枝に白いPEテープが結びつけてあることに気が付きました。登山道近くにもありましたから、奥宮の場所を示す目印とわかります。場所がわかっていれば、このシグナルは自然と目に入ってくることになるのですが、私の場合は「大ざっぱな時間または距離」としか手掛かりがなかったので…。
意気揚々と風三郎神社に寄り、奥宮に参拝できたことを報告しました。
幣帛と注連縄の紙垂の白さに目が留まると、左右のソヨゴも青々していることに気が付きました。先週は無かったので、今日例祭があったことを知りました。最近の風潮として、10月第二日曜日が例祭日と考えました。
風穴の話を伺った男性の家にお礼を兼ねた報告に行くと、「(神社の)お祭りがあって出掛けたので、朝からいない」ということでした。伝言として今日の経過を手短に話すと、一週間前の“出来事”を聞いていたようで直に通じました。
黒牛集落の入口にある神社もソヨゴで飾られていましたから、今日お祭りがあったことがわかります。朝から戸主が集まり、地区内の神社を順に廻って例祭を行ったことが想像できました。
『南向村誌』には、「十三柱の神を昭和二十五年五月十三日合祀し黒牛神社と呼ぶようになった」とありました。
帰り道なので、風三郎神社縁(ゆかり)の大御食神社へ寄りました。名前だけは知っていましたが、駒ヶ根市のこの場所にあることを初めて知りました。
短い石段ですが、思い出したかのように痛み出した足をかばうのが大変でした。