分社を巡拝し史料を眺める中で、本社の新海三社神社は「上社と下社を祀った諏訪神社」と結論づけることができました。また、不可思議な社殿配置も、「興波岐命(おきはぎのみこと)は、後付けの客神」と知ったことから、「そうゆうことだったのか」とガッテンできました。
それについては追々書く予定ですが、取りあえず「月遅れの御射山祭」が終わらない前にと、期間限定版として「新海三社神社にも御射山社がある」ことを紹介することにしました。
臼田町文化財調査委員会『臼田町の文化財』にある民話の一つを転載しました。
実は、『臼田町の文化財』で御射山社の存在を知ったことで、8月25日に「御射山社探訪」として山中に分け入りました。しかし、大汗をかいただけという結果に終わっていました。
今日は、神職から「祠があるだけ・参道は荒れている・30分ぐらい」と聞き、境内案内絵図右端の「至御射山社」を睨んでから行動を起こしました。ところが、恥ずかしながら、前回と同じ道を経て尾根上まで到達してしまいました。
「御射山社を紹介しようと汗だくになっているのに、祭神は我を見捨てたのか」と愚痴もこぼれる帰途、「下から車道が合流する」と聞いていた地点で、一面に長く伸びた草の下が湿地であり、そこに木道らしきものがあることに気が付きました。 「ここに木道があるのはおかしい。もしかして」と、その先をたどります。カスガイも外れているほど乱雑になった木道が終わると、ただの山の斜面です。立ち止まって周囲を見回すと、山手に祠が見えました。何の意味もありませんが、発見場所から一歩も動かずに撮ったのがこの写真です。
「年一回(の例祭)だから荒れている」と言っていた通りの御幸道でしたが、祠の中も幣帛は見当たらず、向拝柱に渡された注連縄に紙垂の一部が残っているだけでした。 身舎に「享保十八年丑(1733)七月□(廿?)日」を確認し、それ以前はここに穂屋が建てられたと想像してみました。
少し下ってから振り返ると、木漏れ日がそこだけに当たっており、「これは絵になる」と撮り直しました(写真で見ると、大した絵にはなっていませんが…)。
これは、御射山社の前から二本の木に渡された注連縄を通して湿地帯を撮ったものです。
その時は「ここに至る経緯」として木道の終点を入れたものですが、これを書いている時に、下社の旧御射山社に近い「八島ヶ原湿原」を模した、または、似た地を選んで御射山社を建立したことに思い至りました。私の「深見」でしょうか。