『諏方大明神画詞』から、御神渡(おみわた)りの段の一部を転載しました。
新海三社神社の紹介の一つに、「諏訪湖の御神渡り(佐久之御渡(さくのみわたり))は、興波岐命(おきはぎのみこと)が湖上で父神である建御名方命と会われた跡」があります。佐久(さく)側では皆さんがそう認識しているようですが、諏訪では「新開明神と小坂鎮守明神が会った跡」と解釈しています。
佐久人の考えはそれとして、「行程二日」から、ここに出る「新開社」は佐久市田口の新海三社神社で、その主祭神は興波岐命とされています。
写真は、その興波岐命を祀る東本社です。現在は三重塔の手前に本殿があります(が…)。
参道から拝殿を通過する「参拝線(↑)」の先は、中本社です。これを見ると、新海三社神社の主祭神が(現在も)建御名方命であることがわかります。
その一方で、「新海三社神社の主祭神」を冠す興波岐命を祀る東本社は、中・西本社と横一列に並んでいます。しかし、かなりの距離をおいた三重塔を拝するライン上とあって、神社の中枢部から除外されたかのような印象を受けます。
臼田町(うすだまち)公民館『館報うすだ』に、丸山正俊さんが寄稿した『新海神社と上宮寺』シリーズがあります。公民館報のコラム記事という内容ですが、私には大いに参考になりました。ここでは、本稿に関係ある部分を抜粋して転載しました。
裏を取るということではありませんが、内容が気になるので『諏訪旧跡志』を覗いてみました。
「興波岐命の神名が史料に登場するのは幕末」とは意外でした。〔興波岐命〕の続きです。
新海三社神社の“核”が、諏訪神社(+八幡社)であることがわかります。分社のすべてが「建御名方命・事代主命・誉田別命」を祭神にしていますから、当然のことでしょう。
ここに、私には初見の「親宮」が登場します。これが、後の「東本社・主神/興波岐命」となる流れが見えてきました。
これを読んで、明治8年に親宮が本地堂の跡地へ移り、その後「東本社」と改称したことがわかりました。その親宮を古絵図に探すと、中本社と西本社の一壇下・神楽殿の西側にありました。
明治10年に編纂された長野県立歴史館蔵『佐久郡古跡名勝図会(写)』があります。ここにある〔田之口村神海神社〕(※ママ)では、すでに移転した状態で描いています。しかし、名称がまだ定まっていなかったと見えて「大家宮」と書いています。
気になる大家宮の跡地ですが、何もありません。明治33年の『信濃宝鑑』も石畳として描いていますから、明治も終わり頃になってから現在見る拝殿が造られたことになります。
これを図解で示してみました。
諏訪造(すわづくり)は、諏訪大社に代表される社殿配置様式です。左に、テキストで表してみました。
これを読んで、その絵図が、館報〔新海神社の本地堂〕に出る「戦国時代から江戸時代中期の作成とされる『新海神社古来之絵図』」と繋がりました。
実は、この古図を初見した時から、現在と異なる寺院と社殿の配置・形状(造り)に疑問を持ちながらも、「あくまで絵図だから」と容認してきました。
ところが、元亀年中──現在の社殿が造営される以前の絵図として眺めると、かつては三重塔と本地堂が並立していたと理解できます。
次に神社部に目を移すと、「かつては楼門があった」程度に見ていたものが、諏訪大社と同じ「幣拝殿の両側に片拝殿がある諏訪造」であることに気が付きました。
比較できるように、宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の図録を転載しました。
見比べると、下部の横並び社殿がまったく同じ造りですから、新海三社神社も「幣拝殿と片拝殿」があったことになります。
たまたま『新海大明神御造営云々』とある古文書を(読めないので)眺めていたら、「東之長廊・西之長廊」が目に入りました。「長廊」は諏訪神社(現諏訪大社)の造営帳に出る長い社殿のことですから、ここで言う片拝殿に通じます。これで終わっては申し訳ないので、何とか「一、西之長廊 拾貫八百文 是ハ大材木宮免斗求以。一、東之長廊 八貫四百文、是ハ山宮修理亮材木寄進仕申」と書き下してみました。元亀・天正の元号がありますから、まさに『新海神社古来之絵図』の時代となりました。
諏訪造りの社殿があった痕跡を探すと、下写真の壇が当てはまります。
現在は手前に土俵があり、奥には庭石状の石塊が幾つかあるだけです。これで、江戸時代にはこの社殿を再建することができない(拝殿が無い)まま明治を迎え、それが終わりとなる頃になって、ようやく今見る一般的な拝殿が造営されたという流れがハッキリ見えてきました。
武田信玄の没年は元亀4年(1573)です。また、長野県内務部『名勝旧蹟調』の〔新海三社神社〕では「武田家信仰の社にして信玄の代(に)社頭再建ありしては今猶(なお)絵図面及書類あり」と書いています。
これらが全部繋がったことから、戦国時代から江戸時代初期の新海三社神社の境内が納得できる形で見えました。正に、新海三社神社は、諏訪神社(現大社)上・下社の佐久支社と言えます。また、郡内巡幸や御射山祭もあるので諏訪神社そのものです。しかし、なぜ「新海」を名乗ったのか・なぜ「興波岐命」を担ぎ出したのかが私には謎として残りました。