『韮崎市誌』に、「お腰掛(こしがけ)」についての一文があります。
その木枠は他に見られないもので、韮崎市でも「穂坂」周辺のものと思っていました。しかし、そこを縦貫する穂坂路(ほさかみち)は甲斐と信濃を結ぶ街道の一つなので、少なくとも、今で言う「北の北杜市と南の甲斐市」には存在すると睨んでいました。
ある時、Googleマップに表示する神社を穂坂からその周辺部に広げながら調べる中で、甲斐市の八幡宮にその写真があるのを見つけました。投稿者は珍しいものとして載せたと思いますが、私は「これは、お腰掛」と直感しました。
鳥居を追い求めたばかりに通り過ぎ、菖蒲澤林道にかなり深入りしてから戻るはめになりました。見逃した要因は他にもありますが、その第一は、鳥居の代わりとなる注連柱(しめばしら)です。その前に立てば納得できますが、立ち枯れた木にも似て、まったく気がつきませんでした。
最近伐られた大きな切株に接して、それはありました。正しくお腰掛でした。
皮を剥いだ丸太の素木を組み合わせてあるので、現地で作ったと想像してみました。
中央に幣帛が立っているので、その奥の石が御神体と思われます。
本来は、この方形の区画がそれなので必要ないと思いますが、何もないのも淋しいということで置い(てしまっ)たのでしょう。
その石の周囲を観察しますが、何も彫られていません。自然石を据えたとしましたが、この写真を撮るために近接すると、何か黒い模様が確認できます。墨書が消えかかったようなその線を眼でなぞると、「山神」と読めます。その下が判読できませんが、当てはまるのは「宮」しかありません。
通しで読んで「山神宮」となり、この神社が山ノ神と確定しました。諏訪では「山之神・山ノ神」が普通ですが、右に並ぶのが「八幡宮」なので、この辺りは「宮」を用いていると考えました。
横並びの神社ですが、参道は別です。
社号標は「郷社 八幡宮」です。しかし、中央の石祠が本殿ですから、山中という立地からも、「なぜこれが郷社、なぜここに八幡様」と考えてしまいます。
社号標の裏一面に文字が彫り付けてあります。この疑問が解消できると注視しますが、彫りが浅い上に逆光とあって読めません。お腰掛が目的だったのでカメラに収め、甲斐市では初見となったお腰掛を後にしました。
去年の今頃参拝した、『山神宮のお腰掛』のその後です。隣接する八幡宮の由緒を確認するために再訪しました。
道路脇に立つ注連柱が、新造の石造りに変わっています。「んっ」とその奥を透かすと、注連柱と同様に枯れ具合最高潮だったお腰掛も写真のようになっていました。
因みに「お腰掛(おこしがけ)」は韮崎市周辺の呼称で、甲斐市となったここでの正式名称はわかっていません。山神宮は、名前通りに山の中の神社という立地ですが、少し下れば果樹園が広がっています。しかし、人家が一軒も見えないので聞き込みもできない状態です。
言葉では伝わらないので、去年の10月28日に撮ったものを並べました。
その時は、丸太というか黒木造りが白骨化して異様と言えば異様ですが、いい味を出していました。もちろん、それは立ち寄り参拝者の感想であって本来の姿を表したものではありません。
近づけば、礎石の上に組まれた部材は滑らかに加工され防腐剤が塗られています。もう、私の年では、今後更新されたものを拝観することはないでしょう。
前回は「お腰掛と、□内に見える磐座は別物」としました。しかし、同じ参拝線上にあることから、改めてその関係を探りました。結局は、文字が刻まれていない自然石と再確認できただけで、両社の繋がりは見つかりませんでした。
お腰掛の更新はすでに絶えていたと考えていましたが、まだ祭祀者は健在でした。この景観は今後50年は続くと見ましたが、詳細は不明のままで隣の八幡宮へ向かいました。