私は、「佐久市田口鎮座の新海三社神社は純然たる諏訪神社なのに、なぜ新海三社神社なんだろう」との疑問を持っています。そこで、本社や分社を見聞すれば、その疑問に何か新しい筋道が現れるかもしれないと始めたのが、新海三社神社の分社シリーズです。今回は、一ヶ月前となりますが、佐久ではなく小県郡の新海神社です。
「和田宿“ステーション”」ですから「道の駅」と思いますが、そこをベース(駐車場)にして旧中山道へ向かいます。
状況映像として、中山道と脇本陣を手前に入れた写真を用意しました。木々に埋もれていますが、◯が新海神社です。
途中から立ちふさがった草をかき分けてその前に立つと、下から見えていたのは覆屋でした。床・壁・柱は新しいのですが、トタン葺きの屋根裏は古来からの造りを残していました。
境内にあった、長和町教育委員会が設置した案内板『長和町指定文化財 新海神社本殿』からの抜粋です。
案内板は三間社流造を謳っていますが、御簾が下がっているので確認できません。「ちょっと失礼して…」と不遜な考えも浮かびますが、それは止めて、横長の社殿なので三間社であることは間違いないとしました。
向拝柱貫の蟇股に、神紋「立穀(梶の一枚葉)」を見つけました。案内板は「新海神社」ですから、これが祭神建御名方命を表している唯一のものとなりました。
下調べで和田宿の近く「鍛冶足」に社宮司社があることを知っていましたが、和田宿ステーションとの往復のみとし、佐久郡にある新海三社神社へ向かいました。
和田村村誌編纂委員会『和田村村誌』から、〔新海神社〕の一部を転載しました。
祭神 建御名方命・神真日命(かみなおひのみこと)・
大直日命(おおなおひのみこと)
三社合殿であるが三間一面の流造。(以下は社殿の構造なので中略)
本殿の建築は徳川中期より下らない。桃山風を憶わせる。本社佐久田口の新海神社の建築を参考にしたか、似通っている点あり。
浅間山を東に一望のうちに古町までが手にとるように見える景勝の地。この地を選んで熊野社の横上段の地に大井氏の信仰の新海社を佐久の地から受けて祀ったものだろう。武田氏も又新海社を厚く信仰して、海野氏を亡ぼしてから海野の地に新海社を建立している。佐久の大井氏が入って、和田、古町、武石を領有した証しの一つともなる社である
ここに突然現れたのが、とても新海三社神社の祭神とは思えぬ「神真日命と大真日命」です。『記紀』には「伊邪那岐命が川で禊ぎをした時に生まれた神」とありますが、「その後の変遷」では片付けることができない怪しげな神様として映ります。この地は小県郡ですから,別系統の新海神社が存在するのでしょうか。